「な、な、なんなんだ、あれは?」

「清涼院だよ」

 そんなことはわかってるよ、と僕は珍しく夏越の言葉を遮って叫んだ。夏越は笑いを含んだ目で僕を見る。

「ああいうやつなんだ。それより急いで万年筆を取りに行かないと、講義がはじまるよ?」

 云いながら夏越は立ち上がった。僕もそれにのろのろと続く。取りに行くと云ったって、と僕は呟いた。

「まあだそんなことを云ってるのか。君は本当に頭の回転が悪い。清涼院でなくたって、苛々するよ。それになんだってはじめから葉書のことをぼくに云わなかったんだい? 葉書のことさえ聞いていれば、清涼院に頼まなくたって見つけられたのに」

 君だって不必要に厭な思いをしなくてもよかったんだ、ああそれとも、と夏越は揶揄するように云った。

「君は清涼院にポウッとなってたみたいだったから、そのほうがよかったのかな?」

「やめてくれッ」

 僕は大声で云った。夏越は振り返ってにやりとする。

「まあ、そんなふうに云わなくてもいいんじゃないかな。あれでも清涼院は悪いやつじゃない。それにあの顔は君でなくたって見惚れるさ」

 僕と夏越は食堂をあとにした。夏越は構内の奥へ奥へと向かって歩きはじめた。僕はその背中を追いかける。

「な、夏越、君には本当に僕の万年筆がどこにあるか、わかっているのか?」

「君のお祖父さまもいまごろ墓場の陰で泣いていらっしゃるだろうね。薄ら莫迦にも限度がある」

「それを云うなら草葉の陰、だろう。僕を薄ら莫迦と云うなら、君は薄らボケだね」

「莫迦にボケと云われたくないな。少なくともぼくには、時間の外、の意味がわかったんだからねえ」

 僕は言葉に詰まった。夏越は勝ち誇ったように高笑いをする。くだらなさと莫迦莫迦しさの極みを行く会話を繰り広げているうちに、僕たちは敷地の果てにある十三号棟の前に辿り着いていた。

「ここかい?」

「葉書が云っているのはね」

 僕たちは校舎のなかに足を踏み入れた。どうしてここが、と僕は夏越に問いかけようとして、思いついた。

 そうだ。十三。

「なんだそういうことか」

 思わず声に出して納得した僕を振り返り、夏越が笑う。

「やっと気づいたのか。そうだ、ここが時間の外だ」

 僕は前を歩いていた夏越を追い越し、大教室に飛び込んだ。そうしてずらりと並んだ講義机の下に備え付けられている物置棚をひとつひとつ覗き込んでいく。

 果たして後方の席のひとつに、祖父の万年筆はぽつんと置き去りにされていた。僕は、あった、と叫んで手を伸ばす。

「へえ、盗られていなかったのか。よかったじゃないか」

 夏越は教壇の手前で腕を組んでこちらを見ていた。

「万里小路、君、清涼院に感謝しなくちゃ。あいつに云われなければ、君は葉書と失せ物を結びつけて考えることなんて決してしなかっただろうから」

 わかってるよ、と僕は悔しさ半分で呟いた。

「それにしても十三を時間の外だなんて、あの葉書の主は随分と浪漫的ロマンチックな発想の持ち主なんだな」

「それはどういう意味だい? 君には浪漫の欠片もないということかい?」

 僕は階段教室を上へ上へと向かい、にやにやと笑う夏越から遠ざかりながら答えた。違うよ。

「そういう意味で云うなら僕も浪漫的だよ。と云うより感傷的であると云うべきかな。僕はこの万年筆を失くしたとき、一緒に祖父の思い出も失くしたような気になっていたんだから。考えてみるとおかしなものだけど、そういう気がしたんだから仕方がない」

「おかしくなんかない」

 不意に夏越のものではない声が響いたので、僕は飛び上がった。背を向けていた教壇の前に、いつの間にやら清涼院と惟原が立っていた。

「おかしくなんかない」

 清涼院は同じ言葉を繰り返した。

「モノには念が宿る。粗末に扱えば祟るし、大切にすれば慕ってくれる。君のお祖父さまが君に遺したその万年筆には、お祖父さまの念が宿っている。君は万年筆を失くしたときに、一緒にお祖父様の念も失くしたのだ」

 清涼院は一度そこで言葉を切った。惟原と夏越は神妙な表情で、いつもは煩い口を噤んでいた。

「念のなかには思い出とやらも含まれているだろう。せいぜい大切にすることだ」

 僕は清涼院がそこに突然現れたことよりも、彼がそういう念だとか、祟るだとかいう言葉を口にしたことのほうに驚いていた。

「君にそういうことを云われるとは思わなかったよ」

 僕は素直にそう云った。清涼院は奇妙な顔をする。

「どういう意味だ?」

 僕は教壇に向かって階段を降りながら答えた。

「君の口調や態度からはとてもそういう、念だとか、祟りだとかを信じているようには思えないからだよ。自分の変な力のことを喋るときだって、さもあたりまえのように振る舞っていたじゃないか。だから僕は君のことをとても現実的な男なんだと思っていたから」

 清涼院はますます変な顔をした。

「現実的っていうのは変かな、そうじゃなくてなんというのか、うん、つまり、思い出に拘泥ることを潔しとしないというのかな」

 僕は清涼院の前に立った。こうやって正面切って向かい合うと、清涼院は驚くほど背が低かった。

「思い出は記憶よりも確かに個人を形作る。記憶とは単なる風景でしかないが、思い出には感情がある。人は記憶だけでは生きていけない。それが証拠に、人は念をモノにすら宿らせる。そうやってモノは思い出と生命を背負うのだ」

 望むと望まざるとに関わらず。

 そう云い切った清涼院を、夏越は半分呆れたような顔で眺め、惟原はなにやら思い詰めたような表情で見つめていた。清涼院は掠れた声で続けた。

「この世にはね。万里小路君、人の念よりおそろしいものなどない。それだけはよく覚えておくことだ」

 僕はなんだか圧倒されていた。清涼院がその切れ長の眼差しを伏せて云ったその言葉は、僕のなかに深く深く浸透し、永久に拭い去ることはできないような気がした。

 やがてふっと清涼院が笑った。低く響いたその声を合図にしたかのように、夏越が口を開いた。

「でも、ともかくも、万里小路。万年筆は見つかったのだから、君は清涼院に礼を云わなくちゃならないよ」

 ああ、と僕は頷いた。

「ありがとう、あの、感謝するよ」

「感謝はいいが」

 清涼院は奇妙な顔でこちらを見上げて云った。

「君はひとつ、重大な誤解をしているようなんだが」

 清涼院は腕を組んで、僅かに首を傾げた。僕もつられて首を傾ける。惟原と夏越がブフッと奇妙な音を立てて吹き出した。ふたりはたまらない、といった調子で笑い出す。僕は顔をふたりに向けて、なんだい、と訊いた。

「そうだな、そういえばそうだ。おい、バンリ、君は誤解している」

「ぼくもおかしい、おかしいとは思っていたんだ」

 だけどまさか口に出してもいないものを訂正するわけにはいかないだろう?と夏越は口許を手で覆いながら、惟原のあとを続けた。

 清涼院はふたりを振り返って、喧しい、と一喝した。さっきまでの奇妙な顔が、いまや完全な仏頂面に変わっている。眼差しには険が含まれ、じつに凶悪なご面相である。美しいだけに、その鋭さは尋常ではない。

「君の誤解を是非解いておきたいと思うのだが」

「な、なんだい?」

 清涼院の冷たい声に、僕は吃りながら問い返す。

「君は私を男だと思っているだろう」

 ああ、と僕はなんの衒いもなく頷いた。頷いてから、半瞬の間を置いて、僕は、えっ、と叫んだ。

 清涼院は僕から目を逸らして烟草をくわえた。燐寸を擦って火を点けると、ふう、とわざとらしい息を吐く。

「え、いや、お、男じゃ、え、どういう」

 僕はすでに思考を放棄していた。無意味な言葉だけが唇からだらだらとこぼれ続ける。惟原と夏越はすでに堪えきれないといった様子で大爆笑である。清涼院はなにも云わずに煙を吐き続けている。

「も、もしかして、き、君は、その、お」

「私のどこが男に見える?」

「じゃ、じゃあ、そのつまり、君は女?」

 清涼院はこれには返事をせずに、不愉快な質問だな、とひとこと云っただけだった。


 僕と清涼院の出会いにまつわるささやかな話は、これですべてだ。

 僕たちの友情は、幸か不幸か、いまもなお続いている。

 野心溢れる編集者となった惟原と、実家を捨て新聞記者となった夏越は、実家とのしがらみを断ち切ることができず、絵描きという名の穀潰しに甘んじる僕とのつきあいはいまだに続いている。清涼院は中野に骨董屋を構え、半分だけ血の繋がった弟と暮らしている。彼女はあれからも例のちょっとした才能を発揮し、幾つかの謎を解決に導いたが、それはまた別の話とさせてもらえれば、と思う。

 そう、最後にひとつだけ付け加えておく。

 祖父の万年筆はたしかに無事に僕の手許に戻った。

 けれど、あの葉書を寄越した人物が誰なのかは、とうとうわからないままだった。いったい誰がこの葉書をくれたんだろうね、と清涼院に尋ねてみても、知るかそんなもの、と一蹴されて相手にもされなかった。

 葉書の送り主については、あれから十年近くが経ったいまもまだ謎のままだ。

 でも、僕は、清涼院のためには、それでよかったのだと思うことにしている。

 わからないことが数多くあるうちだけが、さがすものが数多くあるうちだけが、生きることを楽しいと感じられる。

 ならば、このささやかに残った謎が、彼女の生きる縁のひとつになればいい、とそう思えて仕方がないからだ。

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君を探して 三角くるみ @kurumi_misumi

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