「清涼院というのは私のことだ」

 硝子を引っ掻くような不愉快に掠れた声が、僕の頭の上から時機を逃さず降ってきたからだ。

 僕は驚いて振り返った。思わず見惚れるほどに整った顔立ちの人物が、そこに立っていた。

 清涼院はまっすぐに僕を見下ろしていた。僕は椅子に座って僅かに清涼院を見上げていた。清涼院はそれほど背が高くなく、華奢で、そしておそろしいほど端正な容貌をしていた。色素の薄い髪は無造作に長く、背中に解き流してある。白く肌理の細かい肌は女性でも通りそうなほどに滑らかだ。

 僕はカッと頬を朱に染めた。

 なにを考えている、これは男だ。そうだろう?

 清涼院は静謐に満ちた目で僕を見下ろしている。僕は顔を赤くしながら立ち上がった。

「おい、バンリのやつ顔が赤いぞ?」

「熱でもでたかな」

 背後で惟原と夏越が無責任に繰り広げる揶揄にさえ、僕は反論できずにいた。口許を手で覆い、不作法を承知で清涼院の顔をじろじろと見つめていた。

「座れよ、バンリ。清涼院が困っている」

 僕はのろのろと椅子に腰を下ろした。顔はまだ清涼院に向けたままで。端正な美貌の主は眉を顰めて、惟原を見遣る。

 なんだ、これは、という掠れた声の迷惑そうな問いかけに、惟原と夏越は声を上げて笑った。

「そう云うなよ、清涼院。おまえにちょっとした用があるんだよ。そうだよな、バンリ?」

 一頻り笑ったあと、惟原が漸くそう云った。清涼院は抱えていた本をどさっと机の上に放り投げて、僕の横に無造作に座った。綺麗な顔が不機嫌に歪んでいる。

「ほら、万里小路。君、失せ物の話をしないのかい?」

 あ、ああ、と僕は吃りながら返事をした。

「う、失せ物。あの、僕の万年筆を」

 僕は云いながらも顔をますます赤くした。綺麗すぎるのだ、この清涼院の顔は。じっと見つめられると、脳味噌が沸騰してしまって、ただでさえ回転の鈍い僕の頭はろくに使い物にならなくなる。

「しっかりしろよ、万里小路」

 夏越が無責任に野次を飛ばした。口許には意地の悪い笑みが宿っている。彼にはきっとなにもかもわかっているのだ。

「いくら清涼院が綺麗な顔をしていると云ったって、君にはなんの関わりもないことなんだよ?」

 その言葉に僕はムッとして、そして少し冷静になった。

「ぼ、僕が失くした万年筆の話をしたら、友人が貴方に頼むのがいいと云ったので、それで」

 吃るのは治らなかったが、それでも割とまともに僕は喋り出すことができた。

「僕は貴方のことを知らなかったので、どんな人かと惟原に訊いていたんです」

「ふん、惟原、おまえ、また余計なことを云ったね」

 惟原は両手を広げて笑った。

「いいじゃないか、清涼院。君が失せ物捜しを得意にしているのは有名だろう? 俺の友人のために、ちょっと力を貸してやってくれないか」

「断る」

 にべもない返事に思わず目を剥いた。惟原は苦笑いをする。

「相変わらずだな、清涼院。面倒なのはわかるけどな、これは万里小路の郁ぼっちゃまだぞ。戦争で幾分か傾いたとはいえ、まだまだたいしたものだ。手を貸しておけば後々役に立つかもしれんとは考えないのか」

 惟原縁はときどきこういう云い方をして、僕の神経を逆撫でする。はじめにこういう云われ方をしたとき、やつはあれで君のことを結構評価しているんだよ、という夏越の取りなしがなければ、僕はその時点で惟原との縁をすっぱり切るところだった。

「断る」

「清涼院」

 珍しく夏越が声を荒らげた。惟原が、まあまあ、と云いながら後を引き受けた。

「清涼院、おまえ、家柄云々は抜きにして、バンリのことを知らないはずないだろう?」

 俺や夏越が話したことがあったからな。ここはひとつ俺と夏越の顔を立てるつもりで、手伝ってほしいんだ、バンリの失せ物捜し。おまえならできるだろう?

 こういうときの惟原は人当たりの柔らかさを十二分に発揮する。そうやって人の心に詐欺師のように鮮やかに入り込んで、人を思い通りに動かすのだ。

「できないとは云っていない。断ると云った」

 清涼院は頑なだった。惟原が眉間に皺を寄せた。僕はハラハラしながらなりゆきを見守るばかりで、なんの役にも立っていなかった。夏越が口を開く。

「どうしてだい、清涼院?」

「疲れるからだ」

 清涼院、と今度は惟原が叫んだ。食堂が一瞬、静まるほどの大声だった。僕はもう、その時点では失せ物捜しなど殆どどうでもよくなっていて、ただひたすら三人の険悪な雰囲気の会話に耳を傾けているばかりだった。

「そう云わずに清涼院、頼むから捜してやってくれよ。ほら、万里小路、ボヤッとしてないで君からも頼みたまえよ」

 急に夏越から話を振られて、僕は吃驚して清涼院を見遣った。清涼院もじっと僕を見返している。そして不意に云った。

「本人に捜す気がないモノを捜すことはできない」

 掠れた声は僕の虚を突いた。僕はグッと喉をつまらせて下を向いた。清涼院の手が動いて、烟草に火を点けるのがわかった。

「なにを云ってるんだ、清涼院。万里小路はあのクソ狭い都電で乗り合わせたぼくにすら気づかないほど万年筆のことばかり考えているんだぞ? 捜す気がないなんて……」

「だったらどうして君はこんなところでボケッとしている、万里小路君。君にはもうとっくに、万年筆の在処がわかっているはずなのに」

「はあ?」

 夏越と惟原が同時に頓狂な声を上げた。清涼院はまるで動じずに、そうだろう、と僕に問いかけた。

 僕は顔を上げて、じっと清涼院を見た。

 僕は万年筆の在処に心当たりなんてなかったし、第一心当たりがあるなら、それこそ清涼院の云うとおり、こんなところで朧気ぼんやりしてなどいない。

「僕には心当たりなんか」

「ないというのか? だったらソレはなんだ?」

「それ?」

 僕は問い返した。夏越と惟原はさっきまでの剣幕が嘘のように黙りこくってなりゆきを見守っている。いつのまにやら、主役は僕に移ってきていた。

「ソレ、その、時間の外?」

 え、と云って僕はびくりとした。あまりに意外なことを云われたために、口を半開きにしただらしのない顔のまま、清涼院をじっと見つめた。

「君の捜し物は時間の外、もうわかってるんだろう。なのにどうして捜しに行かない?」

「な、なんで、それを」

「おい、万里小路。わかるように説明してくれないか」

 夏越が不機嫌な声で割り込んだ。惟原も剣呑な目つきでこちらを見ている。僕はふたりから視線を逸らして、吃りながら答えた。

「は、葉書が来たんだよ。き、君の、さ、捜し物は、時間の外にあるってそんなようなことを書いた葉書が。で、でもそれが」

「なんだよ、わかってるんじゃないか。万里小路、君はどこまで莫迦なんだ。ちゃんとわかっているのに、取りに行かないのかい?」

「と、取りに行くって、場所がわかればそんなものすぐ取りに行くよ? で、でも時間の外なんて、どこだかも判らないところへ取りにいけるはずがないじゃないか」

「その万年筆は貰い物のなのか、その人は君のお祖父さま? 随分と君のことを可愛がっていた人みたいだね」

 唐突すぎるほど唐突に清涼院がそう云ったので、僕は、なんだよ、と大声で叫んでしまった。

「落ち着けよ、バンリ」

 惟原が力の抜けた声で云った。

「清涼院、視えたのか?」

「視る必要なんかない、万里小路君は万年筆の在処をちゃんと知っているのだから。時間の外、だ」

「だから、どうしてそれを知っているんだよ?」

 僕は、漸くまともな言葉で清涼院を問い詰めることに成功した。清涼院は動じる様子もなく、平然と答えた。

「葉書が来たんだろう?」

「違う、どうして清涼院、君は僕のところに葉書が来たことを知っているんだ? 僕はそのことを誰にも喋っていないのに」

 ああ、と清涼院はなんでもないことのように頷いた。視えるからだ、と。

 なんだ視えたんじゃないか、と惟原が烟草に火を点けながら云った。これには夏越も驚いたようだ。僕だけではなく彼も、どういうことだ、と声を上げた。

 どういうことだと訊かれても、と惟原は無責任に云って清涼院を見遣った。清涼院は烟草を持つ手を挙げて、端正な顔を顰めてみせた。

「説明するのは難しいな」

 僕は納得しなかった。物事に対する淡泊な姿勢を常に崩さない夏越でさえ、納得しなかった。

 清涼院は細すぎる十本の指を組み合わせて顎を支え、溜息とともに言葉を吐いた。

「私には普通の人には視えないモノが視えるらしいな」

 僕と夏越のふたりは清涼院に瞠いた眼を向け、そのまま凍りついてしまった。たいしたことではないだろう、と清涼院は続けて云った。惟原は涼しい顔をしている。

「ちょっとした才能のひとつだよ。君のお家柄と同じようなものだ。そんなに驚くことではないだろう?」

 清涼院はまるで、誰にでも見えるモノが見えないと云っている者を莫迦にするような口調で云った。

「家のことと、その不思議な力とはまったく別物だと思うけどね」

 僕が不機嫌に云うと、清涼院は、そうかな、と無表情のまま首を傾げた。

「望まないのに与えられたものであることは同じだ」

 僕は黙った。黙らざるをえなかった。惟原が云った。

「そういうことだ、気にするな。こいつに見えるのは記憶の断片だけで、別にバンリや夏越の思考を読むってわけじゃない。見えるのは単なる風景の切れっ端なんだろ、清涼院?」

 清涼院は、あたりまえだ、と云うように頷いてみせた。

「私は変態じゃないんだ。他人の考えてることなんかわかってたまるか。気がおかしくなってしまう」

 吐き捨てるような清涼院の言葉に、座は一瞬、静寂に落ち込んだ。どうにも理解し難いことを無理矢理に理解するために必要な、それは静寂だった。

「は、話を元へ戻そう」

 夏越が云って、僕は我に返った。

「そ、そうだ。え、ええと、どこまで」

「万里小路、君の許へ葉書が届いたというところまでだよ。捜し物は時間の外。清涼院、そうだったね?」

 夏越がまとめる。惟原は三白眼を光らせて、清涼院を見遣った。清涼院は烟草の火を消した。僕は当事者であるくせに、ひとり状況から取り残されている。

「どこにあるかはもうわかっただろう、万里小路君?」

 清涼院はそう云って立ち上がった。僕は慌てる。

「ま、待ってくれよ。わからないよ、時間の外ってどこのことなんだい? 君には、その、視えたのかい?」

「視えるはずがないだろう、そんなもの」

 清涼院はうんざりとした顔つきと口調で云い捨てた。僕はその頃にははっきりと悟りはじめていた。この清涼院という男は顔立ちに似合わず、クソ意地の悪い性格をしているのだ。

「君には、でも、わかっているんだろう? 万年筆がどこにあるか。僕のところに届いた葉書の意味も」

「あたりまえだ」

 清涼院は眉を顰める。机の上に放り出したままだった本をまとめて、トントン、と音を立てて縦横を揃えた。そしておもむろに僕を見遣る。

「君には、私や、そこにいる惟原や夏越君よりもたくさんの考える時間があったはずだろう。それなのにどうしてわからないんだ? 私にはそのほうがよほど不思議だよ」

 ちょっと待ってくれよ、と僕は云った。

「夏越、君にももう僕の万年筆がどこにあるかわかっているというのかい?」

 夏越は困ったように惟原を見遣り、そして頷いた。

「答えはひとつしかないじゃあないか、バンリ。その葉書には君の万年筆がどこにあるか、君がどこで万年筆を失くしたか、ちゃんと書いてある。清涼院に頼む必要なんかはじめからなかった」

 僕に人差指を突きつけて惟原がそう決めつけた。彼もガタンと椅子を蹴って立ち上がり、次は清涼院に向かって云う。

「おまえ、教室どこだ? 講義だろう?」

「城戸教授の芥川論かなんかを聴いてみようと思うのだけど、教室がどこだったかわからなくて。仕方ないから先週と同じ量子力学にしようかと」

 清涼院は意味不明のことを云った。

「せ、清涼院」

 僕は何度目かの、待ってくれよ、を口にした。

「生憎だが、私は忙しい。もうこれ以上は付き合っていられない。夏越君、君、一緒に捜してあげたまえよ、友人なんだろう?」

 そう云って唇の端を持ち上げて、にやりとした。

「面倒だなあ」

「まあ、そう云わずに鈍くさい友人を持った者の運命として、甘んじて従えよ。行くぞ、清涼院。城戸の国文学は三号棟だ」

 惟原が笑いながら云い捨てた。夏越は不貞腐れながら片手を挙げてふたりを見送る。僕はすっかり莫迦にされた恰好のまま、食堂に取り残された。

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