君を探して
三角くるみ
上
君が失くした君は
時間の外に。
僕の手許に、こんな奇妙な二行を記しただけの葉書が届いたのは、僕が大切にしていた万年筆を失くしてから五日めのことだった。普段だったら気にも留めないはずの、差出人不明のその葉書に僕が心魅かれたのは、そういう事情があったからだ。
失くしてしまった万年筆はマホガニーの軸に金のペン先という、僕には不釣り合いに御大層な代物だったが、僕がそれを大切に扱っているのは、その万年筆が、僕が所持する品のなかでも特別に高級なものだったから、というわけではない。そうではなく、それが僕を十四歳のときまで育ててくれた祖父の形見の品だったからだ。
僕の祖父は、時代錯誤なまでに理不尽に厳格な人で、彼は僕と過ごした十四年間、数えられるほどしか笑ったことがない。年に数度、皺だらけの頬に薄く浮かぶ笑みは、おおよそ大声を上げるような豪快なものではなく、笑っているのだとあらかじめ認識して見なければ、決して笑顔だとは思えないような微笑みだったと記憶している。
僕が十四になった年に祖父は他界し、僕は実家に戻ることになった。両親は長いこと離れて暮らしていたにもかかわらず僕に対してまったく屈託がなく、実兄である
僕は厳しかった祖父のことをそれほど慕っていたわけではなかったが、それまでの十年以上、もっとも身近にいた者の死は、僕にとってはじめてであり、それはそれで、それなりに衝撃的だった。無論、形見を受け取るということもはじめてだった。
形見。死者が生者にモノを遺すやり方を、僕はそのようにして祖父から教えられた。
十四の年に実家に戻り、今年で僕は二十歳になった。その六年のうちに家族と僕のあいだにあった、奇妙な違和感を伴う溝もほとんど埋まって、否、そんなものははじめからなかったのかも知れないと思えるようにもなっていた。
けれど祖父の形見である万年筆を失くしたとき、僕は自分でも想像していなかったほどの大きな喪失感を覚えたのだった。それまでは単純に、大切だ、としか認識していなかった万年筆の存在は、失くしてから日が経てば経つほど、胸の裡で大きく重たく膨らんでいった。
捜しても捜しても見つからない、そんな焦りと不安は自分でもどうにも抑えのきかない大きさに成長してしまい、僕は見つからない万年筆と、わけのわからない自分自身に苛立ちさえ感じはじめていた。
冒頭のような葉書が届いたのはそんなときである。
僕は葉書を三度読んで、ぴくりと眉を震わせた。妙に癇に障る文字の羅列だった。
君が失くした君は時間の外に。
性質の悪い悪戯だ、と僕は憤った。葉書自体に悪意はないにしても、時機が悪すぎる。普段だったら、なかなか気の利いた葉書だ、などと云って笑い飛ばしてしまえるはずの冗談も、いまの僕にとっては洒落にならない。
失くしてしまった万年筆は、祖父が僕に遺したたったひとつの形見だった。ほかになにかモノが欲しかったのではない。ただその万年筆は、唯一僕にかつて存在した祖父を、実感させるモノだった。祖父はたしかにこの世にいたのだと、なにかこう証明してくれる、そういうモノだったのだ。
自分の記憶を信じていないわけではないが、形として手許にモノがあるのとないのとでは、そのたしからしさがまるで違う。記憶は手に取ることができない、目で見ることもできない。けれどモノは違う。
触れることができ、見ることができる。モノは記憶の代用品でしかないが、実体として存在する意味は大きい。僕は祖父の記憶と万年筆とを同格化していたのだ。いつのまにか、自分でも気づかぬうちに。
だから不安なのだ。万年筆とともに祖父の記憶を失くしてしまったように感じて、不安なのだ。
僕は手にしていた葉書を読みさしの文庫本に挿んで、それを教科書とともに鞄にしまった。柔らかな初夏の陽射しのなか、大学に向かって家をでた。
心なしか俯き加減で都電に乗り、僕は
「なにをボケッとしているんだい?」
不意に耳元で声がしたので、僕はギャッと叫んで飛び上がった。振り返ると、柔らかそうな癖髪をひどくいい加減な長さに切りそろえた友人が、にやにやと人の悪い笑いを浮かべていた。
「そんなに
ちなみに万里小路というのは僕の苗字である。
「
僕の返事により一層にやにや笑いを増したこの男は、大学で知り合った友人のひとりで、夏越
「なにを云うんだ。ぼくに気づかない君の方が悪い。なにしろ君はぼくのすぐ鼻の先をフラフラと通り過ぎていったのだからね」
「考えごとをしていたと云っただろう?」
「例の万年筆のことを考えていたのかい? そういえばお祖父さまの形見とか云っていたっけ。相変わらず莫迦だねぇ、君は。失せ物というのはね、考えてもでてきやしないんだ、捜さなくちゃ」
わかってるよ、少し黙ってくれないか、と僕は云った。
「機嫌が悪いったらないね」
夏越はあきれ果てたといった口振りで云い捨て、プイと横を向いた。僕と目の高さはそう変わらない男だが、頭のキレは僕よりもずっといい。常日頃からにこやかで物腰も柔らかく、去年、今年と少しずつ増えてきた女子学生にも人気があるようだ。
僕は友人から視線を逸らし、そのまま黙っていた。
実のところ、夏越に声をかけられる前まで考えていたことなどすっかり忘れてしまっていたのだが、それを認めて夏越と話を続けるのは癪だったのだ。
こういうくだらない負けん気の強さには、われながら嫌気がささないでもない。けれど止めようもない。仕方がないとなかば諦めている。
都電は大学のある駅に停車した。周りにいた僕たちと同じ年頃の者たちがぞろぞろと降りる。僕と夏越は話をするわけでもなく、かといって左右に分かれて歩きだすでもなく、なんとなく連れ立って食堂へと向かった。
学校へやって来たからといって、すぐに講義に向かうとは限らないのだ。
僕のほうは聴きたい講義の時間まで少し余裕があったし、夏越はどうだか知らないが、もともと講義などほとんど聴かない男だから、教室に向かう気などは最初からなかったのかも知れない。
食堂へ行けばいつもの悪友どもが雁首を揃えているだろうし、どうせどこにいても暇なのだから、友人たちと顔をつきあわせているほうがまだしも気が紛れるというものだ。ひとりになると、辛気臭くいろいろと考えてしまって、どうにも宜しくない。しかも夏越の云うとおり、考えてもどうにもならないことを考えるのだからさらに始末に負えない。
夏越は食堂の扉を押し開けた。表の爽やかな空気とはうって変わった澱みが僕たちを包む。烟草の煙と食べ物の匂い。それに加えて若い人間特有の体臭である。僕は思わず顔を顰めた。
馴れてしまえばどうということもないのだが、ここへ踏み込むはじめの一歩はいつも不快と我慢を伴う。それが友人たちの云うところの僕のお育ちの良さというやつなのかも知れない。
「そういう顔をするんじゃないよ」
夏越は僕を見遣ってにやりと笑った。食堂へ足を踏み入れる瞬間の僕を、彼はいつも面白がって観察する。
「君はよく平気でいられる」
「ぼくは君と違って、こういう空気には馴れているんだよ。君のようにお上品な育ちじゃないから」
「悪かったね」
「悪いなんて云っていないよ。ぼくはただ君みたいな友人を持ったことがなかったからね、珍しいだけさ」
気に障ったなら謝るよ、でもいつものことじゃないか、と夏越は肩を竦めて云った。そして、それはそうと、と続ける。僕は夏越を横目で見遣った。食堂のなかを奥へ向かって歩きだしながら、夏越は云う。
「それはそうと、万里小路。君が気に病んでる失せ物捜し、あれ、
「清涼院?」
僕は素っ頓狂な声を上げて、夏越に窘められた。
「君はどうも、反応がいちいち大袈裟だねぇ。いくら食堂といっても限度があるよ、慎みたまえよ」
なにが慎みたまえだ、と僕は云い返した。この喧噪のなかではどうせ誰にも聞こえやしない。
「違うよ、万里小路。ぼくは君のためを思って云うんだ、清涼院の名前をこんなとこで大声で叫んだりしないほうが身のためだよ」
なんだそれは、と僕は云った。
「第一、その清涼院ってのは何者だ? 失せ物ならって君はさっき云ったけれど」
「順番に説明してあげるから、落ち着けよ」
云いながら夏越はふっと右手を挙げた。視線の先にはいつもの悪友連中が数人で談笑していた。
僕たちはいつもの手荒いやり方で挨拶を交わし、その周辺の空いている席に腰を下ろした。夏越は僕の正面に座って脚を組んで烟草に火を点けた。
「それで、その清涼院ていうのは」
「君は名前に似合わずせっかちだよね。万里小路
「名前はいま関係ないだろ?」
わかったよ、と夏越は厭な顔をしてみせた。烟草の灰を手近な灰皿に落として、おい
「なんだよ」
惟原
「万里小路に清涼院のこと、教えてやってよ」
夏越が云うと、惟原はじっと僕の顔を眺めて、あらためて夏越に向かって云った。
「なんだってまた、バンリのやつが清涼院なんかに用があるんだ」
バンリ、とは僕の渾名である。マデノコウジと呼ぶのが面倒だと云って、夏越以外の友人は僕のことをバンリと呼ぶ。たしかにそのほうが呼び易い。
「万年筆を失くしたらしいんだ。ぼくの周りの人間で清涼院に失せ物捜しを頼んだことがあるのは、君くらいなんだよ、惟原」
夏越の弁に、ふぅん、と惟原はつまらなそうに頷いた。
「祖父の形見なんだ。大切なんだよ、捜してるんだ。清涼院て誰のことだい?」
僕の言葉に、ふん、と惟原はなにに頷いたか、唸ってみせた。眼鏡の奥の眼差しがふっと鋭くなる。
「清涼院ていうのはだなあ」
惟原はそこで一息ついた。そして直後に、なぜか口許だけでふっと笑った。僕はわけがわからず首を傾げたが理由はすぐにわかった。
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