第4話 刺繍
今、空には爪の痕のような細い月が出ています。
王様はどうしてもの仕事だけささっと終わらせてから着替え、庭の隅に花壇の修復用に積みあげられたレンガに腰かけて一息ついていました。
ところどころに吊るされたランプに照らされた庭は、すばらしくいい匂いがします。オレンジの花が満開なのです。
オレンジには、実にも花の香りにも、心を安らげ苦しみを和らげる効き目があるといいます。それを何度も大きく吸い込みながら、大きく息を吐きます。
さすがに疲れたようで、噴水の音に混じってここまで届く召使たちのわいわいがやがやを聞きながら、一段高くなった植え込みの縁に寄りかかって王様はぼんやりしていました。
王様はもともと流れ者の家に育ちました。
ほんの赤ん坊の頃からいろんな国を回りました。
でも流れたくて流れていたわけではありません。おじいさんやおばあさん、お父さんやお母さんが必死になって荒れ地に家や畑を作って、うまく行くようになったら偉そうな人たちにとりあげられてしまうことが何度もありました。お役人が踏みつぶした人形に幼かった妹は泣き出し、うるさい、と家族の目の前で殺されてしまいました。
一族で更に彷徨ううち、この誰も手をつけなかったところへ来たのです。
荒れに荒れた半ば砂漠のような土地で、一族で多くの種麦をだめにしながら少しずつ少しずつ畑を増やし、同じように行く場所を失くした人々と一緒に働いて、ここまで来たのです。
ある日、少しばかり弁が立った少年が小麦を奪おうとしてくる連中を適当に言いくるめて追い返したことから、何かと頼られ矢面に立つようになりました。その少年が今では長じて王様です。この飢饉に乗じて、麦を剣にも盾にも使って国を誕生させたら、すぐに「王様」の位へつけられてしまいました。
この国の将来を思うと、王様はどうすればいいのかわからなくなってしまいます。
今年も首尾よくことが運びましたが、ずっと天候不順が続くわけもなくこれからどの国でも元通り小麦や大麦は獲れるようになるでしょう。もう売らなくてよいのならそっとしておいてくれればよいのですが、どの国も麦がたくさんとれる豊かな土地は欲しいのです。強い態度に出るための切り札がなくなっているので、話し合いだけで国を守ることは難しくなります。
そうなれば、やはり強力な守りが必要なのです。
まだ手薄ながら軍隊は作りました。もちろんこれから兵を増やして軍馬や武器や防具も揃え、もっともっと安心できるような備えをする手はずも整えています。他の国で兵隊や役人にひどい目に合わされて育ったからこそ、そうしなければ奪われてしまうのはよく知っています。
しかし、おくびにも出しませんが、人の血の流れることが大嫌いな王様は、とても情けない気分にもなるのでした。
少し歩調の不確かな足音が近づいてきましたが、王様はまだまだ考えごとをしていて気づく様子もありません。
おずおずと声がかかりました。
「あの、……ご機嫌麗しゅう?」
お姫様が立っています。
「ああ、何とか。おまえのご機嫌のほうは」
「ようございます」
「それはよかった」
「今日はお疲れさまでした」
「ああ、おまえもお疲れさんだな。……ここ、座るか?」
王様は自分が座っている隣にある、もう一つの積みレンガを指し示しました。お姫様はごくわずかに立礼をして、そこに腰かけました。
「今日はありがとうな。ありゃすごかった」
「お気に召しましたか」
「召さんわけがないだろう。おかげでイカした気分だった」
朝、話し合いが行われる大広間に王様が身支度を整えて入ろうとしたときのことでした。最後の一針が縫いあがったばかりの服を抱えて、お姫様が転びそうになりながら駆けてきました。そして、これに着替えてほしいと、目の下にくまを作った顔で真剣に言うのです。あの見事な刺繍がされた衣装は、お姫様がこの数日間、たくさん経験を積んだお針子たちと相談し、手分けして四苦八苦しながら作ったものでした。
作りもかたちも真新しい礼服を身に着けた王様はすっかり感心してしまい、すべてうまくいく、という気がしたのでした。
「おまえ、やるときゃやるんだな」
「わたくしの侍女が、服を鎧に例えておりました。でしたら、あなたにもあなたの戦場に相応しい鎧が必要だと思ったのです」
どのくらい時間がかかったのか、どういう工夫をしたのか、そもそもなぜ自分に服を誂えようと思ったのか王様が問い、お姫様がおとなしやかに答えます。でも、頑張りを認めてもらえたうれしさは隠しきれていませんでした。
少し言葉が途切れてから、お姫様は思い切ったように言いました。
「もう脱いでしまったのですね」
「汚したくないからな。大事にさせてもらう」
「あの服の、シャツだけはわたくしが全部縫ったのです。刺繍も、結び飾りも、全部です」
「うん、針目が細かくて手が込んでたな。晴れ着として、死ぬまで大切にしよう」
お姫様は王様の言葉を遮りました。
「いいえ、普段に着てほしいのです」
「あれは野良着にはもったいないんじゃないか」
「汚れたり、破れたりしたら、何枚でも縫います」
「そしたらありがたみがなくなっちまうだろ」
「ありがたみ?」
「俺は貧乏性だからな。いいことはたまにあるくらいがちょうどいい」
王様は権謀術数にまみれた駆け引きができる人なのですが、深窓の姫君の女心については今一つ思いが至らないようでした。
そんな人でなかったら、お輿入れしてきたばかりの娘っこから服を取り上げたり、ロバにのっけたり、農婦の中に放り込んだりはしないでしょう。
お姫様は、つい言い返してしまいました。
「いいことがたくさんあってもよいではありませんか。わたくしは、ここへきてからたくさんよいことがありました」
「それで、俺にシャツを縫ってやろうって?」
「縫ってやろうではなく、着ていただきたいのです」
「おまえ、意外と頑固だな」
王様は苦笑しました。
「ここに来たときゃ、俺たち見てビビりまくってたくせに、こんなにいろいろ言うようになるとは」
「あのときは、これまで近くで見たことがなかったので、驚いただけです」
「俺もお前を見て驚いたんだぞ。肖像画はもらってたけど、実物もこんなに人形みたいだとは思ってなかったんでな」
「それは、可愛いということですか」
言ってしまってからはっと口を押さえるお姫様を見て、王様は一瞬、寂しくなりました。
多分、このお姫様は可愛らしいお人形に囲まれて暮らしてきたのでしょう。
王様の死んでしまった妹のものや、この国の子どもが大事にしているものとは比べ物にならないほど、上等で立派な人形に。
「それもある。でも、俺が思ったのは、自分の意思がなさそうだし、カチンコチンで壊れそうだし、人形みたいなやつだなと」
お姫様は随分な見当違いをしてしまったことに気づいて真っ赤になっていました。
でも弱いランプの光では多分見えていないでしょう。
恥ずかしさをごまかすようにお姫様はツンと言います。
「そんなわたくしをロバに乗せたり畑へ放り出したりしたのですか」
「……ちょっとまずいんじゃないかとは思った。根に持ってんのか」
「最初はなんてひどいことをする方だろうと思っておりました。でも今は、ほんとうに感謝しております」
それを聞くと、王様は少し黙ってしまいました。お姫様は王様の気分を害してしまったのかと不安になりました。
すると王様はもそっと立ち上がり、すぐ戻る、とだけ言って回廊を大股に歩いていき、それからすぐ戻ってきました。
あの、お姫様が縫ったシャツを着ています。
王様はお姫様の前に立ってちょっと肩を
「ほら、これでいいんだろ」
お姫様も慌ててレンガの山から立ち上がりました。
「飾り結びがひとつ裏返っています」
直そうと手を伸ばすと、王様が半歩後ずさりしました。
「自分で直すからいい」
「いいえ、房のところが変になっているのでわたくしが」
近づいて手を伸ばしたときに、また王様が半歩下がったので、お姫様は転びそうになりました。
おっと、と言いながら、王様はお姫様の脇に手を入れて支えます。猫の仔を抱き上げるときのようです。
「嫁入り前の良家の子女は、亭主以外の男に気安く触るもんじゃないぞ」
「あなたも、こうして嫁入り前のわたくしに触っているではありませんか」
「転びそうだったくせによく言うよ。俺から触るのは良家の子弟じゃないからいいんだ」
「生まれた家から捨てられたわたくしも、よいではありませんか」
お姫様は襟の飾り結びを手早く直すと、一息間をおいてから弱々しく言いました。
「あなたはお忘れのようですが、わたくしはあなたに嫁ぐためにはるばるここへやってきたのです」
「そうだったな」
「わたくしは王妃になろうと思います」
「は? なんで?」
王様が驚きの声を上げました。何を驚くことがあるのか、お姫様にはわかりませんでした。
「ここへ来た日の夜、わたくしが殿方を好きになれば、添わせてくださると仰ったでしょう?」
「うん」
「わたくしが王妃になると言えば、してくださるのでしょう?」
王様がびっくりして黙っていると、お姫様は棒立ちのまま震え出しました。ここしばらくは泣いていませんでしたが、泣き出しそうになっています。
「わたくしではだめでしょうか」
「だめじゃないけども、……育ちの違いとか、肌の色のこととか、そういう違いがどれだけ根深いか、おまえ、わかってて言ってんのか」
「わかっています」
「一時の気の迷いでは済まんぞ」
「わかっています」
押し問答が始まります。
すべてに、わかっている、と答えながらお姫様は、王様が少しだけ怖がりだということに気づきました。
王様のほうはというと、お姫様の言葉を甚だ疑わしく思っていました。でも、その一方でどこまでこの娘が自身の言葉に責任が持てるか見てみたい気もしましたし、可愛らしくも思いました。何より、畑仕事や政がうまくいっているときとは違う幸せな思いが胸に広がりました。
王様は溜息を吐いた後、近くのオレンジの木から一房の花を折り取り、お姫様の結った髪に挿して飾りました。
「後悔しても知らんぞ」
「後悔はしません」
その年の収穫祭は、昨年よりずっとずっと気分が浮き立つものでした。
なぜなら、お祭りの最後の日、王様とお姫様の婚礼が行われたからです。
王様の衣装は調っていたとしても、これほどいきなりでどうやって支度を間に合わせられたのか、ですって?
もう、こうなることがわかっていて采配を振るっていた人物がいたからです。
「俺、ときどきおまえのことが怖くなるんだが」
王様にそう言われて、奥付きの侍女は何も答えずふふっと笑い、お姫様に向き直りました。
「さあ、あれを王様に被せて差し上げてくださいませ」
王様と対になった衣装を身に着けたお姫様は、思いきり背伸びして、王様の頭に麦で編んだ冠を載せました。よろけるお姫様を支えつつ、頭に冠を載せてもらった王様は、屈んだついでにお姫様にキスしました。
さあ、婚礼の儀式のはじまりです。
それから王様もお姫様も仲良く暮らしました。
その治世はよその国からも政を学ぶ人がやってくるほどで、みな末永く幸せに暮らしましたとさ。
めでたしめでたし。
****************************
麦の国と呼ばれたその国は、初代から数えて三代めであっさりと他の国に征服され滅びてしまいました。
そんな国が存在していたことは、教科書には載っていません。知ろうとし、調べた者だけが存在を知るのです。
そんな昔に、肌の色も、性別も、出自も、一切のタブーを取り払おうとした国があったことは驚嘆に値します。
様々な面における人権意識が進んだ現代においても、まだ難しい問題が山積みなのに、です。
今日、王妃が初代の王のために縫ったシャツはこの博物館で見ることができます。
遺っている日記や手紙によると全部で三十二枚あったらしいのですが、現存するのは十三枚。
そのうち半数以上は他の遠い国の博物館に収蔵されています。
シャツはガラスケースの中のトルソーにつけて展示されています。
経年に黄ばんだ麻のシャツはなんと雄弁なことか。
施された刺繡の針目が、このシャツを縫った女性は、夫である男性を心から愛していたのだと語ります。
さらに、未だに人類は、自分で思っているほど上等な存在になれていないということも。
――了
金の穂の物語 江山菰 @ladyfrankincense
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます