日を見送る

 学校から、在学中に作成した資料の扱いをどうするか、で呼び出された。

 全て寄贈するということに異存はなかったが、親か本人の署名が必要だということで、出掛けていた。


「伯爵!」

 帰るなり、発止とした声に呼ばわれて振り向いた先に見た顔に、「自室に謹慎」を言い渡さなかっただろうか、と内心に溜息を吐く。

 他人に従うような子でないということは、充分に知っている――。

「家を出る支度をする為に一度学校に行きたいので、皆にそのことを伝えて下さい」

 玄関広間の大きな階段を、跳ねるように下りて来る。

 外套を使用人に渡しながら、その様子を眺める。


 育ち過ぎで、難産で生まれた子だった。

 同じ年に生まれた子供の中では常に大きい方だった。

 好奇心も人一倍で、幼い身体で出来るかどうかなどお構いなしに挑戦する子だった。

 汚れても、怪我をしても、腹を下しても、臆することを覚えはしなかった。

 注意をしても「きょう僕はまさにそのことを学びました!」と声高に、武勇伝を語る子だった。

 何を言っても右から左に抜けているのに、何か教えてもらっている間は、相手が誰であろうと、食い入るように聞いていた。


「伯爵の許しが無ければ、僕はこの屋敷を出られません」

「自室に謹慎していろ、と言わなかったか?」

「言われました」

 躊躇なく、余りにはっきり答えられると、何をどう注意してよいのか分からなくなる。否。自信が揺らぐ――自室で謹慎しているということは、この様に屋敷の中を自由に歩いていることも含むのだったか、と思えて来る。

「自室で謹慎しているということは、どうしていることだ」

 問うと、大きな目を瞬かせる。

「部屋で、自身の行為を顧みることだと理解しています」

「ここで何をしている」

「伯爵から、外出の許可を得ようとしています」

「私の言葉に従う気はないのだな?」

 言うと、少し後ろを振り返って……恐らく、自身の部屋に意識を向けたのだろう。小さく首を傾げた。

「伯爵夫人に無礼を働いたことについて考えればよいのですよね? 考えてみました。確かに僕の行為は良くなかったと思います。スカートの裾を捲る前に先に理解してもらえるまで丁寧に説明するべきでした」

 実際には、その行為は意味をなさなかっただろうが。誰かが愚行を止める時間を稼ぐことは出来た。

 そうすれば、この子は、アクテレート伯爵家の嫡子でいてくれた。

「ですが……もう一度同じことをするとしても僕は同じ方法を採ります。伯爵夫人は僕とは会話が出来ません。混乱して叫んでだけいる間に目的を達しなければなりませんから」

 気負いも、屈託もない。ただ、自信だけがある声だ。

「結論は決まっています。これ以上考えることには意味がありません」

「そうか……」

「はい。そんなことより、学校に行かせて下さい。市中の暮らしが実際にどのようなものか、僕の知識は乏しいのです。級友に、商家の出の人がいますから教えてもらって来ます」

 王立学校は基本的に貴族の子弟の為の学校だが、国に貢献度の高い商家(要するに税金を多く払っている商家)の子弟も通っている。

 それらは、庶民と言えば庶民だが、「普通の庶民」ではないだろう。

 貴族ではない、というだけで――。

 そんなことに考えの及ばない子ではない。考えていないのであれば、「考える必要のない些末なことだ」と判断しているのだ――この数日、仕事を休んで屋敷にいる間に、家令から聞いたこの子の気性から察するに。

「そうか。ならば、明日一日、学校に行くことは許す」

「ありがとうございます!」

 嬉しそうに晴々と笑むと、軽やかに身を翻す。

 細い背中はあっという間に階段に差し掛かっていた。


「待て」

 声を上げると、子は振り返った。

「何でしょう?」

 希望に輝く顔しか持たない子だと、知っている。

 咄嗟に呼び止めたものの、続ける言葉を考えていなかった。喉元まで出掛かった本音は、口にするには羞恥が勝った。

「お前に何が出来る」


 思わず出た、恐ろしく意味のない質問に、震えた。

 子は、嬉しそうに笑った。それこそまさに訊いて欲しい内容だった、と言わんばかりに嬉しそうに笑んだ。


「分かりません!」

 上り掛けた階段を下りて、喜び勇んで戻って来た。

「僕は今、読み書きが出来て、幾らかの知識があります。料理と裁縫が出来ます。剪定と馬の世話と、犬の躾も出来ます」

 嬉しそうに、指を折る。

「あぁ……剣術と体術も学校の成績はまあまあでしたね。楽器もだ」

 改めて折った指の数を数えて、「少ない」とおかし気に笑う。

「世界にはとてもたくさんの仕事があるそうですよ。仕事の内容はもっとあるということです。その全てを僕は経験することが出来るでしょうか?」

 「どう思いますか?」と顔を覗き込んで来る。

「全てを経験したいのか」

「勿論です!」

 夢見るように語る――。

「僕は未だ、大したことも出来ない、つまらない子供です。僕は、料理を頂きながら喋ることは出来ても、料理を作りながら喋ることはまだ難しいし。襯衣を着ることは出来ても、縫い上げることは出来ません。教えてもらいながら兎の罠を作ったことがあるのですが、初めて作った時には動きませんでした!」

 何が面白いのか、笑う。

 「今は、ちゃんと動くものが作れますが」と笑う。

「馬の仔が産まれる時は、ただ黙って見ていることも出来なかった。だって、凄く興奮している母馬の尻から仔馬がずるりと落ちて来るんですよ。あの高さから。驚きますよ。でも……あの時、あの厩舎にいた僕以外の人にとっては然して珍しい出来事でもなかったのです」

 厩舎で働く者にとって、馬の出産が珍しい筈がない。狼狽えるのは、初めて経験する時くらいだろう。

「伯爵……」

 子は、一呼吸己の手を見下ろして、顔を上げた。

「小刀で指を切った時と、針で指を刺した時と、痛いのは同じなのですよ。不思議ですよね……傷口は全く違うし、傷付いてしまった後の傷み方は違うのですが。傷付いた瞬間の痛みは同じで。ただ、痛い、のです」


 子の手は、大きくて、肉厚とまではいかないが厚みがあり指が長い。力が強く、器用なのだと聞いている。

 陽に焼けていて、指先が荒れている。傷跡もある。学校が休みの時には馬の世話をするし、犬を洗うし、薯の皮も剥く。簡単な繕いなら自分でやってしまう――からだ。


「世界にはたくさんの仕事があって、その内容はもっとあって。仕事に関係しないことはもっともっとありますよ。今、僕の知っていることは少しで、出来ることはもっと少ない」

 貴族の子によく見られる、繊細さはない。

 武門の家の子に見られる、武骨なだけの手でもない。

「僕に何が出来るのか、僕が知るのはこれからです」

 今は未だ市井の者の手でもない――。

「何も出来ることがなかったら、どうする」

 問うと、子は刹那驚いた表情を見せた後、笑い出した。

「ありがとうございます。伯爵は、僕が生きている間にこの世界の全てのことに挑戦出来ると信じて下さるのですね。僕は……実は少し不安に思っていたのです。幾ら何でも無謀なのではないか、と。何しろ僕は、世界にどれだけの仕事があるのかさえ知らないので」

 「そうか」と言葉にならなかった。

「でも、伯爵がそう考えて下さるならきっと出来るのでしょう」

 突然、手を握られた。感謝の意を表したのだ。

「ご期待に沿えるように頑張ります。それで……出来ることがなかったら、ですね」

 ごわつく幼い掌は、この柔い手をどう感じているのだろうか。

「世界にある全ての仕事が僕に向いていなかったら、未だ仕事とされていないことを仕事にします。全ての仕事を経験した後ですから、簡単なことです」

「そうか」

 「はい」と答えて、子は「未だ支度が終わっていないので」と、背を向けた。


「名は決まったのか」

 声を張って、遠ざかる背中に問う。

 振り向いた子は、大袈裟に顔を歪めた。

「僕には名付けの才能は無いようです……」

 「知っている名前しか思い浮かびません」と言って、肩を落とす。

「「サシェナ」にしようと思います。「ルクカ」と「アクテレート」を使わなければ良いのですよね」

 頷くと、会釈して階段を上がって行った。



     ‡   ‡   ‡



 本当は――。

 妻を「病死させる」ことも出来た。

 アクテレート家にとっては、その方が利益が大きい。

 長子のルクカは、人見知りせず、物怖じせず、人心を得る才能を持っている。つまらない者ではなく、一角の者の関心こそを得る。学問にも秀で、弁も立つ。

 妻はもう長く精神を病んでいて、治る見込みがない。


 アクテレート伯爵夫人となった女は、生涯、この屋敷から出られない。

 平民の女は貴族社会の悪意に免疫がない。仕来たりや作法を知らないことを笑われるくらいなら構わないが、唆されて取り返しのつかない“傷”を負うこともある――それは余りに憐れだ。

 家名を守る為にも、守ってやらねばならない。

 治療の妨げになるとしても。


 社会的には肩書きだけで存在しているような女が死んだところで、家族以外は誰も気に留めない。

 「鎮静剤の飲み過ぎで亡くなった」と言えば、息子たちも反論は出来ない。

 だが――。

 ルクカがどう思うかは見当も付かないが、母親から溺愛され過保護に育ったコフィアスは、兄を敵視するだろう。

 身内で争ってはいけない――外から付け込まれる。

 兄弟が対立した時、コフィアスではルクカと刺し違えることも難しいだろう。誰か対抗できる才のある者を連れて来ることになる。アクテレート家が最も忌避すべきことだ。

 王家とアクテレート家を守る為、引いてはダナの平和を守る為には、ルクカを家から出すのが最善だ。


 本当は、妻と次子を始末するのが最善なのかも知れない。だが。

 それは余りに憐れだ。

 一方は血を分けた子だ。一方は、夫婦だの男女だのの情はないが、子を生んでくれた大恩のある相手である。それに仇で報いれば、ルクカも家に対して反感を覚えるだろう。



     ‡   ‡   ‡



「行ったか」

 全ての手続きが滞りなく完了し、子はアクテレート家とは何の関係もなくなった。

 家を出る支度もあれば、片付けもあるだろう、と月末まで屋敷にいることを許可していたが、二日後である月末を待たずに家を出て行った。

「はい。役所までお送りしますと言ったのですが、断られました」

 新しい身分と市民権の登録は本人が行う必要がある。

「あれにうちの者の手を割く必要はない。もう関係のない者だ」

 返事がないことに、後背を振り返る。

 家令は心配気な眼差しで窓を見ていた。


 エリーエは家令となって一年と幾らか、未だ日が浅い。前は、子らの日常周りの采配をさせていた。目端が利き、優しい気性だと聞いたからだ。

 ここ暫くの言動から察するに、母親との縁の薄い長子の方により深い情を抱いているらしい。

 縁を切る理由を頭では判っていても、納得できない――その感情を抑制出来ない。


「放っておけ」


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BL】さあ!新しい冒険の世界へ 余話 美夜本ルイ @dollsoldierbase

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