BL】さあ!新しい冒険の世界へ 余話

美夜本ルイ(ミヤモト落水)

夢を祓う

 俄かに意識が浮上して開いた瞼の向こうに見えたのは夜明け頃の薄闇の落ちた部屋だった。明け方の住宅街には微かな音もない。

 こんな頃合いに起きる習慣はない。

 腕の中に聞こえる、喉の奥に押し込められる悲鳴に起こされたのだ。


「ノール」

 声を掛けながら、背中から抱き込んでいた身体を反転させる。

 仰向けにして寝返りを打たせようとしたところでノルキドが瞼を開いた。

 不自然な目覚めに覚醒し切っていない意識が、サシェナの髪や肌の色を見て、表情を失う。

 絶望する様子の哀れさに――腹が立つ。血と、間に合わなかった己の間抜けさに。

 胸に顔を埋めるように抱き直してやると、腕も脚も指さえも動かないという体だったノルキドは一転して身体を摺り寄せて来た。

「サ……ナ、さま」

「えぇ。サシェナです」

 答えると、額を押し付けて来る。抱き着きたそうに腕を置き処なく彷徨わせる。

「名前を呼んで下さい」

「サシェナさま」

 頭と腰を支えて身体の上に乗せるともう条件反射で身体を起こす、ノルキドに合わせてサシェナも身体を起こした。

 向かい合って座った為に出来た距離を自ら縮められないノルキドにそっと身体を寄せる。以前に急に抱き締めて軽い恐慌に陥らせたことがある。それからは、なるべくノルキドの気持ちに沿えるように努めている。

「ノール」

 ノルキドは恐る恐るという風に首に腕を回して来た。緩く掛かった腕がそろりと締まって、最後には縋り付いて来た。ここまで待って漸くその背中に腕を回した。撫でる。この手が少しでも慰めになれば良いと思う。

「サシェナ様」

「はい」

「お、こしてしまって。すみません」

 不快な夢を見たノルキドの胸は未だ不安定に上下しており、喉の震えも治まらないようで、声が揺れている。

「いいえ。嫌な夢を見た時はお互い様です」

「サシェナ様、は嫌な、夢は見ないですよね?」

「今の所は未だ見たことがないですね」

 間を持たせる為の毎度の遣り取りだったが、不意にノルキドが小さく失笑した。

「この間、笑っておられました」

「僕が? 寝ている時に?」

 問うと「はい」と返って来る。寝ている時の笑いも「寝言」と言うのだろうか、と小さな疑問を覚えた。

 以前なら疑問はそのまま口に出していただろうが、今は胸に納めておく。今はノルキドの気持ちを安んじることの方が大事だ。疑問は思い出した時に改めて考えれば良い。

「大き、くはなかったですけど、声を立てて笑っておられました」

「どんな夢を見ていたのでしょうね……?」

「楽しい夢だったと思います。楽しそうでした」

「なら。きっと、ノールの夢です」

 言うと、ノルキドは多分「違う」と言おうとした。口を閉ざした。耳元にそんな気配を感じた。

「何ですか?」

 少し身体を離して顔を覗くと――言ってもいいけれど、秘密にするようなことでもないけれど、どうしよう? そんな悪戯な表情である。

「言って下さい。気になる」

 拗ねた表情を見せると、ノルキドは一際優し気に笑んだ。

「サシェナ様は私の前であのような笑い方はされません」

 言葉の内容と表情がちぐはぐで、首を傾げた。

「子供の頃の夢だったのだと思います。そんな笑い方でした」

 ノルキドの嬉しそうな様子に、申し訳なさを覚えた。

 生憎、友人と遊んで楽しくて声を立てて笑ったような経験をしたことはない。

 貴族の子弟というのは大抵そういうものだ。生まれた瞬間から爵位や能力の上下に縛られている。そこに無邪気な笑いはない。

 サシェナに限っていうなら、楽しくて笑ったことはあるが、記憶にある限り一人の時だ。立場上傍に誰か控えていたとは思うが、これはまた別だろう。

「それなら……やはり。ノールの夢です」

 今度はノルキドが首を傾げた。

「塔の守人が友達にいてくれればいいのに、と何時も思っていました……あなたが友達にいる子供時代を夢に見たのでしょう」

 ノルキドは同情と照れの混じる表情を隠すように俯いた。

「子供の僕はきっと、あなたにとっては意地悪でしかないことを沢山して、何度も泣かせた筈です。でもノールは僕の傍にいてくれるのです……僕はあなたが泣く理由は分からないのですが、あなたから愛されていることは分かって。とても充実して楽しい毎日を送る……そんな想像ばかりしていました」

 過去の幼い空想を、ノルキドはそっと抱き締めてくれた。

「小さい頃のことです」

 抱き締め返して、随分落ち着きを取り戻していることを知る。

「長じてからは、愛らしく成長した幼友達のあなたを組み敷くことばかり考えていました」

 腕の中でノルキドは身体を強張らせ逃れようとするが、許さない。

「「愛らしく」て、姿を知らないのに……酷く醜いかも、と考えることはなかったのですか?」

「考えましたとも。でも、僕が生まれる前から塔の守人はこの世界に存在しているのですから。守人の姿を可愛く思うように僕は生まれついている、と信じていました」

 「その通りでした」と続けると、ノルキドは羞恥が極まったのか身体を縮めて動かなくなった。

「ノールの子供の頃は可愛かったでしょうね。賢くて、優しくて……子供の僕は、あなたに夢中になったと思います」

「私だって……」

 肩に顔を押し付けるノルキドの耳が赤い。

「同じ年齢の子供として出会っていたら、サシェナ様に夢中になりました。行動力があって正義感の強いサシェナ様を遠くから眺めては憧れで胸を一杯にしていたと思います……私なんて、そんなその他大勢の一人です」

「なら、僕も。誰にでも優しくて皆に慕われているあなたに気後れして遠くから見ていることしか出来なかったかも」

 殆ど同時に噴き出した。

「私は臆病で……幼馴染達の遊びについて行けなくて。小さい子達の面倒を押し付けられて、取り残されるような子供でした。慕われているなんて、とても」

「子供時代の僕は「その他大勢」達から敬遠されていただけです。汚いとか馬鹿だとか……憧れられるような要素なんて一つもない」

 ノルキドは少し身体を起こした。

 すっかり落ち着いた表情に安堵を覚える――勿論、内心も同じだとは思っていない。それでも、無理をしなくても平静を保てる程度には、夢に見るほど嫌な記憶は遠ざかったのだ。

「サシェナ様は、チビ達に翻弄されてくたくたの私に気付いて「大丈夫」と声を掛けて下さるのです。そして、一緒に遊んで下さって……」

 「どうして一人で子守りをしているの?」――言いそうな気がする。

「一人で何人もの子守りをするのは大変だと思うので一緒に看てやろうと思うとは思いますが……泥だらけだったり、身体中を芋虫が這っていたり。名前や食べられるかどうかを調べようと採集して来た木の実や茸に、気に入って拾って来た石やガラクタで鞄やポケットがパンパンだったりしますけどね」

 耐えられないとばかりに両手で顔を覆ったノルキドが肩を震えさせる。

「すみません……チビ達が真似をすると困るので遠慮しておきます」

「折角、親切で言っているのに酷いですね」

 二人して一頻り笑って、ふ、と息を吐いたノルキドが「でも」と呟いた。

「私は、声を掛けてくれた男の子を好きになったと思います。勇敢で優しい子を好きにならないのは難しいことです」

 純粋な好意の籠った眼差しで見上げられる。同じだけの清けさで受け止められないのが恥ずかしい。今は、我慢するけれど。

「押し付けられた困難な仕事を投げ出さず「大丈夫」と答える子だって、愛されるに充分な資質を持っていますよ」

 接吻けの代わりに、額や鼻先、頬を擦り合わせる。

「ノールが出来なかった遊びとはどんなものですか?」



 他愛ない会話をして、朝を待つ。

 強姦された時の夢を見たノルキドは寝直すことを怖がるから。

 忘れたい、と乞われるままに抱いたこともあるけれど、これは即効性はあるけれど何度か繰り返した結果ノルキドが情緒不安定になり、良くないと判断して話し合って止めた。

 性的な交わりというものは一時心を慰めてくれるけれど、満たされる為には互いの心身の健やかな時を選ばなければならないのだ。ノルキドに出会って漸く知った。

 未熟な子供に「悪いことだ」というのは当然だ、と今なら分かる。

 幾ら悪いことをしても、人生の充実はない。

 惜しみなく与え、ありのままに受け入れなければ――。



「喉が渇きませんか? お茶を入れて来ます」

 太陽が地平線を離れた頃だろうか、ノルキドが身体を離した。

「なら、僕も行きます」

「休んでいて下さい」

 共に暮らすようになってから随分経つのに、ノルキドは未だにこんな遠慮じみたことを言う。

「僕が行くと、湯が早く沸きますよ」

 膝の上から降りるノルキドに言う。

「大変、魅力的な申し出です……でも。お疲れではないですか?」

 腰に回していた腕で腕を捕らえる。

 肩先に合った手が胸に突かれる。

 留める手と遠慮する手で縺れるように寝台を下りた。

「寝不足だと思ったら、メルエ夫人が帰ってから寝直せばいいのです」

「そんな自堕落な」

 今更「おはようございます」と接吻けを交わして、日常を始める。

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