第5話
レイコが見ている70歳直前で亡くなった湯灌中の女性の生きてきた時間はまだまだ1/3といったところだが、
昭和初期戦争禍の不安定な日本の日々は、何度体験しても思った以上に心細くて不公平で、厚かましくてずる賢い人間ばかりが得をするような場面ばかりで、いつも吐き気がする。
戦争のお陰で大きく財を儲けた者たちは、今コロナ禍で儲けている一部の者たちとは比較にならないほど子孫何代にも栄華を遺すことになるのだ。
以前看護師をしていたとはいえレイコには診療所経営のことはよくわからないが、このノブの実家の病院がなぜ他人のものになってしまったのか、気にかかる。
「こんにちわ、ツネオ君とノブさんですね?」
「?」
「電車を待ってるんですか?次の列車まで1時間はありますよ、こんなそとで何を?」
「誰?」
「あんた達のお父さんの、あ、ほんとはおじいさんやね、その、友達の人から、2人のことを頼まれたもんです。カツヤと言います、聞いとりますよね?」
「特には聞いとりませんが、こんにちわ…」
「ハツエさんとかキクエさんも知ってはるん?」
「亡くならはったお母さんのジュリさんの、腹違いの姉妹の人やったかな?何回か会ったことありますよ、あちらはすっかり忘れてはるやろけど」
「そうです…」
「ほんとのお父さん、軍医さんにならはってすぐに戦死なさったて、そういうのは聞いてます」
「僕ら、お父さんのことはよう覚えてないんです…、でも、多分そのとおりです」
「あんた達の住んでた家の後、大きい病院が建つんやね、君らのおじいさんが貧しい町のみんなのために自分のお金を全部使って建ててくれはったとか、代表してお礼を言います、ありがとうございます」
「何も聞いてませんしわかりません、俺らは今はまだあの家の奥半分に住める部屋が残ってるんでそこで生活しとるんです」
「なんかほんまに私らの家のことに詳しい方みたいやけど、カツヤさんは、何をしてはる人なんです?」
「大学に入るために勉強しているとこです、外国に負けない国になるために学びたいんです」
「戦災孤児の子達が幸せになれる国に、日本もなりますか?」
「ノブ、そのことは…、黙っとけ」
「あー、駅裏の子どもたちのことですか?5000人くらいはいるそうですね…。5歳くらいから16歳くらいの賢そうな男の子は人足とか丁稚にするために連れていかれて、顔が綺麗な女の子は連れていかれて身売りさせられたり…、酷い有り様ですよね…、栄養失調で毎日何十人も死んでるそうです」
「あなたは知ってて、何にもしないんですか?」
「ノブ…!」
「僕は、お金持ちやないんで、全員を一人残らず引き取って御飯を食べさせてあげたり服を買ってあげたりなんて、なんも出来ません…」
「私らも自分の服をあげるくらいしか出来ませんけど、でも、見て見ぬふりは出来ません!」
「あ、これ。僕、キャラメル何箱か買えて、全部どうぞ。もっていって、駅の子らにあげてください」
「こんなに?」
「どうやって買えたんですか?」
「仲良くしてくれてる人にこっそりもらったんですよ、どうぞ、僕はまたいつか手に入れますよ」
「栄養失調で骨と皮みたいな小さい子が何人もいるんです、多分、最期に口にするものになるのかも…、でも、あげたいです。ありがとうございます!」
「ノブ、一人ずつ、外周りの子に見つからんように直接口に入れてやろう」
「うん。カツヤさんも来はる?」
「いや、僕は勉強があります、また、見かけてら声をかけてください、ほな、ここで。さよなら」
「あの…。どうもありがとうございました」
「早よ行こう、15歳や言うてたお腹の大きい女の子、あれは子がおるんやろ?なんとか助けてやりたいなぁ…」
「お兄ちゃん、気がついてたん?あのお腹はそろそろやと思う、お腹だけ膨らみすぎてるもん、でも、子ども産んだことある人探さんと…私にはわからんし…」
「ハツエさんとかキクエさんは来てくれるかな?」
「この前ハツエさんに頼んだけど、すぐ断られた。駅の子は戦災孤児で不潔やから治らへん、て、死ぬのを大人はみんな待ってるんやから、て…」
「なんやねん、それ」
「大人も歳よりもあてにならへん、お金か骨董品か着物か、なんか家にある高いもんを渡さな何にもしてくれん」
「あれだけの数の駅の子らを、俺らで助けることはかなわんけどな…」
「お兄ちゃん、私、わかってる。わかってるから、堪らんのよ…じっとしておられん…」
「キャラメル、5箱もあるぞ、全部で50人くらいは喜ばしてやれるな!」
「うん。とにかく行こ、お兄ちゃん」
戦争で家族に死なれて家から焼け出されたり親とはぐれて着の身着のままの、幼児から高校生くらいの年齢の孤児が駅の一角に集まって寝泊まりしている。
よく見ればあちこちで死んでしまっていて、駅員が死体を集めているのを見るレイコも初めてのことで心臓の鼓動が大きく打つのがわかる。ここの子達の何割が今を生き抜いていけるのだろうか…。
駅が見下ろせる建物の2階の角にいるのは松井弁護士と3人の若い男達だ。
「大通りの医者の家を買いたいという声は出たか?」
「出ました、すぐに」
「半分は売らずに残して。病院の改築は玄関周りを広く立派にするだけで良い」
「登記簿を綺麗に整理しておいてくれ、所有者は一旦息子のツネオに。借家五軒もな。遠くの別宅3軒は売却だ」
「相続は男の子ひとりですか?」
「嫁いでいる娘らには相続の権利は認めない」
「ノブさんはまだ嫁いでいませんね、今年16歳です」
「ツネオは20歳になるから、数ヵ月間は正規に相続させるとして、書類をよろしく」
「はい。」
「この辺りの余剰金で、前に手伝ってくれてたカツヤを大学に行かせる。その後、元陸軍上層部の子どもを失くした夫婦の養子にする、養子縁組希望について正式に依頼されたからね」
「はい、確か大先生の娘のジュリさんとキクエさんは料亭を一軒相続してましたが倒産のために売却したようです」
「キクエは今回は相続無しにしておけば良い」
「こちらへの手数料は何割で?」
「後々証拠が残る正規手数料は、格安で、少しで良いだろう。今後病院経営を全て任される新院長には、自分の立場は雇われの身である旨を承諾署名させてあるから、ツネオ名義の間に病院は安く買ってしまうさ」
「家を何軒か売りに出す手配を進めます」
「ツネオ君の大学は、一年も続かないような厳しいとこを探しておこう。学費と寄付金が少しで済むように…」
ツネオとノブは、駅の子たちのことを心配している場合ではないのかも知れない。
小さい木造アパートの狭い1DKの部屋が3室。ここにカツヤ、ツネオ、ノブの3人がひとり1部屋ずつ住まっている。
「カツヤさん、すみません、署名したものの、ホントはなんかよくわからなくて。」
「仕方ない、相手は言葉の意味をなんとでも言ってくる専門家で、大学辞めてしもたツネオにかなうわけないさ」
「松井センセとは直接会えなかったんですけど…」
「ノブは、トミオと結婚するの?」
「カツヤさんがいっつもトミオさんを連れてきてるうちに、なんかトミオさん、ノブの部屋に泊まるようになってたみたいで…、どうも、お腹に子どもがいるようです…」
「そうか、ノブもいよいよ奥さんか」
「あんな、チャラチャラした男前は、俺は好かんのですが…」
「2人の気持ちが大事や、子どもも大事、両親が揃ってることが何より大事やろ?」
「トミオさんは実家のお金でふらふらしてはるやないんかと…」
「ノブはもう二十歳やで、良い母親になるやろ」
「カツヤさん、来年は卒業ですね、すごいな、学士さんや」
「ツネオの大学の方が難しかっただけや」
「いや、俺は、学問は向いてないんです、元々、頭が悪い方で…」
「ツネオが今、小料理屋の板前してるのもすごいことやないか。老女将も喜んではるしな」
「自由にさしてもらってますんで、まあ、文句ないことです」
「ツネオ、ノブもやが、3人兄弟やと思って、何でも相談してくれよ」
「ありがとうございます、カツヤ兄さん…」
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