第2話

甘い匂いがして温かい。


レイコは、

湯灌中に、1日前に死んでしまった目の前の女性の記憶の中に自分が入っているのを感じた。


広い家の中庭で誰かの背中でうたた寝をしているが、バタバタと動き回る人たちの話し声がうるさいけれど怖い感じはない。

なぜか眠くて目を開けていられず、手を握っても力が入らず拳がうまく握れない。

「のぶちゃんはよい子やねぇ、たんと食べて、たんと寝て」

ゆっくり揺れる背中で女の人の独り言がくっついた彼女の身体越しにぼんやりと聞こえてくる。

安心できて幸せな空気を感じられる…。



足の先が寒くて、香の薫りで鼻から息がしにくい。


私の肩を抱きかかえている隣に居る大きな女性の手が震えていて、何人もの泣いている声が寺の中に響いている。

「まだのぶちゃんは3歳やのにお父さんが死んでしまうなんて可哀想やでなぁ」

「ツネオちゃんも4歳やし。ジュリさん、なんとか皆で考えるようにするから、心配せんで」

「軍医ゆうてもまだろくに治療もしたこと無いまんま出征して3ヶ月くらいやら?」

「町長の息子が急にお医者になる言うて学問中で、その代わりの出征とかやで」

「ええ若先生にならはったやろうに」

「正しいことに敏感で正義感強すぎる先生やったし軍の中でリンチに会うんちゃうか、て、うちの人はいうてたけんどなぁ」

「逆ろうたら正しくても間違いでも何でも半殺しになるわい」

「し~っ…」

「ジュリはまだ若いから、なんとかしてやらにゃ」

「残ったもんで、小さい2人の子らを不自由させんようにせんとな」

なんとも不安で胸が苦しい…。



もうすぐお迎えの車が来る、上手いこと着物が着られますように。


「今日はお稽古のあとでみなで写真とるさかい、境さんの写真館で待ってるしな」

「はあい、お母さんだけ?お兄ちゃんも?」

「ツネオも一緒やで、お父さんの写真も持ってな」

「お兄ちゃん、卒業やもんな」

女学校では裁縫上手のサエちゃんと仲良くなって毎日が忙しい。

ミチちゃんは意地悪な事ばっかり言うけどいっつも一緒にひっついて来るから慣れてきた。

サエちゃんはお醤油屋さんとこにお嫁に行くことになってはって、ミチちゃんは家の和菓子屋さんを継ぐからお婿さんがきはる。

私は、まだ、なんも決まってない。

お父さんが死んで、町医者のおじいちゃんがこの料亭を建ててくれて、ここでお母さんとおばさん夫婦と暮らしてからはお母さんより女中さんらと喋る方が多い。

お母さんは、病院に通ったり入院したり退院したり、心臓脚気ていう怖い病気とかで。ああさって12歳になるんやし、もっとしっかりしないと。



胸騒ぎがして、喉と鼻が詰まるように苦しい。


おじいちゃんの紹介の大学病院は大きくて広くて、どこに行ったらお母さんに会えるのかわかりにくい。


やっぱりお母さんは悪かったんや…、やっぱり…!我慢して笑ったはった、いっつも、大丈夫、大丈夫、心配いらんよ、とかばっかり言って。


「ノブちゃん、おいで。ツネオはどこにいる?」

「お母さん。お兄ちゃんは割烹で見習いしてはるんで忙しいんやて、今はお店から出られへんのやて」

「そうか。なんや今日はからだがスッキリしてるわ、でも目が、あんまりはっきりと見えへん。お薬がよう効いてるせいらしい。ノブちゃん、傍に来て、顔、見せて」

「うん」

「キクエは?」

「叔母さんは会合に出掛ける日やわ」

「ノブちゃん、女将になってくれるん?」

「なる、お母さんと一緒にやりたい、キク叔母さんは嫌いや…」

「ヤマニシさんは?」

「優しいけど、何かあったら奥さんのキク叔母さんの言いなりやもん…」

「もう半年くらいお店手伝えて無いし、申し訳なくてな…。キクちゃん、頑張ってるんやろな、きっとな、忙しいねん、許してな」

「お母さんが元気になれば私も一緒にやる、きとんと手伝うし」

「ありがと。実はうちの板前な。こないだ、そこらじゅうのお金もって逃げたんやで。何日分かの売り上げも仕入れのお金も無くなっててんやて。良い人に見えてもわからんもんや。ノブは、人を見たら泥棒と思え、という言葉を知っときなさい。」

「え?あの優しかったヒデさん?」

「賭け事の借金やとか女に盗られたとか、わからんけどな」

「お兄ちゃんもそうなる?」

「まさか、そんなことないわよ。今は修行中やけど、すぐ帰ってきてヤマニシさんと板場を守ってくれる」

「あ、そろそろ検査ですよ、て言うてはるよ」

「検査ばっかりや。ものすごく時間がかかるし、もう、帰りなさい。ありがとね」

「お母さん、明日、お茶のお稽古の帰りになるけどまた来るね」

「しんどかったら来んでもええよ」


「ノブ、お母さんはどないや?」

「こんな夜中に、お兄ちゃん、忙しかったん?あれ?その左目の周り、お岩さんみたいに腫れてるやん!なんで?痛ないの?」

「上のもんに、下駄で殴られてん。渡された箸を下に落としてしもてな。」

「それだけで?」

「5回は叩かれた、3回くらいまでは大したことなかったんやけどなぁ」

「お母さんとこ、行けないわけやね」

「そう、この顔で行ったら心臓に悪いやろ、ノブ、泣かんでええ、いつもの事や。何かあるたびに蹴ったり殴ったりの仕事場や。理由も言い訳も聞いてはもらえん…」

「お兄ちゃんも、泣いてるやん…」

「おじいちゃんの診療所の人らは誰も叩かれたりしてなかったやん、怒られてはることあったけど」

「そうやな。あの世界とはまるで違う。ヤマニシさんからは聞いてなかったから、もう、逃げたいくらいや」

「お兄ちゃん…」

「おじいちゃんのとこで医者やりたいわ…」

「お母さんと3人でおじいちゃんのことに帰りたい…」

「顔が治ったらすぐお母さんとこ顔だすからな。」

「お母さん、目が見えにくいとか言うてたし、そのままでもええから、お兄ちゃん、すぐ行って。お母さん、喋ってる途中で何回も目を閉じるようにしてはった、きっと本当はしんどいのやと思うねんけど…」

「わかった、明日外出したいて頼んでみる」



母の顔にかかった白い布を取って、両目と片方の唇が紫色に腫れてるお兄ちゃんが、いっぱい涙を流しているのが見える。


キクエ叔母さんも泣いている。ヤマニシさんは病院の人と話している。


おじいちゃんは患者が多すぎて診療所が忙しいとかですぐに来られない、とキクエ叔母さんが言った。


お父さんが居なかったのにお母さんも居なくなった。

お兄ちゃんは修行中で、私は学校辞めるのかな…、お母さん、私も一緒に連れていってください。


生きてても、もう、良いことがあるとは思えない。


「お父さんが毎月くれてはる生活費をもっと増やしてもらわな。病院代、たくさんかかったんやから。それと、ノブの踊りとお茶とお花の稽古はやめさせて、着物を20枚ほど売ろうと思うわ。ツネオさんの部屋は客室にして、帰って来られんようにせんと。なんや、根性なしで逃げて帰ってきそうやから、徹底的に厳しく仕込んでやってくださいとよう頼んではいるんやけれど。ツネオさんは小さい頃からお勉強がきらいやったから、そうする道しか無いもんなぁ。」


ヤマニシさんに話をしているキクエ叔母さんの声がはっきりと耳に入ってくる。




















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