第21話 二人の話④

「だから一発殴らせてほしい」

「……へっ」


 相模が素っ頓狂な声を上げる。


「相模に嘘を吐かれて、その後も色々傷つけられて、許せないって思ったの。それであんた、自分で殴っていいって言ったじゃない」


 間抜けに首を捻った相模が、少し考えて「いっ…………たねえ、そういえば。はい、言いました」と渋々頷く。


 相模に手酷く打ち捨てられたあの日から散々悩んだ。

 自分から仕掛けといて傷ついたみたいな顔してんじゃないわよとか、言いたいことは色々あったけど、全部引っ括めて一発殴らないと気が済まないというところに落ち着いたのだ。


「うん、じゃあ、はい。どうぞ」


 生意気な態度で不承不承受け入れた相模が、覚悟を決めたようにぎゅっと固く目を瞑る。私もうんと頷いて、彼のがら空きになった鳩尾みぞおちに一発拳を捩じ込んだ。


「ぉげぇっ!」


 この世のものとは思えない呻き声を漏らしながら、相模がその場に膝をついて崩れる。


「ごめッ待って! ぅげ、ごほっ……」

「だ、大丈夫? まだ話さない方が。少し待っててあげるから」

「金森さんがやったんじゃん……」


 蹲って腹を抑えたままの相模が「平手で顔を打たれると思ってたのに」と呟く。


「せっかく綺麗な顔してるんだから大事にしなさい」

「うそ、はじめて顔褒められるのがここ……? 最悪すぎる」


 そういえば、相模の端麗な容姿を直接褒めてやったことはなかった気がする。

 痛めつけたお詫び代わりにその肩にそっと手を添えて、彼の喜びそうな言葉を並べてやった。


「安心しなさい。あんたはちゃんとイケメンよ」

「チャラにはならないからね……」


 私の心中を見透かしたように相模が呻く。

 さいですか、と身を引いて、私はガレージの床に膝をつく。しゃがみこんだことで、伏せられたままの彼の顔がよく見えるようになった。

 うん。嘘でもお世辞でもなく、やっぱり綺麗な顔をしている。


「あんたが私を傷つけたことは、さっきの一発でチャラにしてあげる」


 未だ鳩尾を片手で覆いながら相模はゆるゆると顔を上げた。

 驚愕に見開かれた琥珀の瞳を覗き込んで、私は一つ一つ丁寧に言葉を舌に乗せていく。


「ほんの一瞬、自信がなくなった。だからってなにも伝えず、なにも伝えられずに終わるのは嫌よ。相模の気持ち、ちゃんと聞かせてほしい」


 相模が私を想って私を傷つけたことは重々承知の上で、やっぱり納得がいかない。

 なにか思うことがあるならきちんとその口で伝えてほしい。

 なにかを守るためになにかを傷つけることを厭わない人間にはなってほしくない。

 あんただけそっち側には行かせない。


 私がその瞳を覗き込んだままじっと黙りこくっていると、相模は会話と呼ぶにはあまりに長すぎる間を置いて、諦めたように言葉を落とした。

 深い諦観の滲んだ声。同時に、彼自身に言い聞かせるような響きにも聞こえる。


「俺じゃ金森さんには不相応だよ」

「……そうね。もっと相応しい人はいるかも」


 心当たりが脳裏を過ぎる。

 相模以外にも私を強く想ってくれる人はいる。

 誠実で、愚直で、正しくて、非の打ちどころがないような聖人。彼に淡く想いを寄せて、互いに心を通わせたこともあった。


 正しい道を外れないよう私を繋ぎ留めてくれた彼こそが、私に相応しい人なのかもしれない。


「それでも私は、相模には私が相応しいと思う」


 やかましくて、危うくて、厄介な相模を隣で見てきた。

 そんな私だからこそ、不器用で、どこか欠けていて、上手に生きられない私たちだからこそ、こうして一人蹲っている隣に寄り添うに相応しいと思う。


「だから教えて相模。ぜんぶ聞くわ。相模がなにを思っているか、なにがしたいのか、どうなりたいのか、なにが苦しくて、本当はなにが嬉しいのか。それで……」


 いつか衝突したときと同じように。


「私、相模のこと信じるわ」


 嘘からはじまってもいいじゃない。

 塗り重ねるほどに最後は真実すらも拒絶される、そんな嘘吐きのトゥルーエンドなんて知ったこっちゃない。

 私は相模を信じよう。私がずっと見てきた、私の信じたい相模を。


 琥珀の瞳が大きく揺らぐ。

 今にも溢れそうに涙が湧いて、ティーカップの水面みたいにきらきら輝きを放っている。


「俺は、本当は、嘘を吐かないと生きていけないような卑しい人間なんだ」


 薄く形のいい唇が戦慄いて、相模はそんな言葉を零した。


「嘘で塗り固めないと、守らないと、誰の前にも立てないような脆い人間なんだ。誰の隣にいても、誰に見られていても、いつ心を踏み荒らされるのかって気が気じゃなくて、踏み込まれたくなくて、ひどいことを言って、遠ざけて、そうやって必死に生きていて」


 相模の眦から溢れた滂沱たる涙が白い頬を濡らしていく。

 胃の中身をすべてぶちまけるみたいに言葉が溢れて止まない。腹の辺りを強く抑えながら、相模は嗚咽に喉を震わせて「だけどもう、」と言葉を継ぐ。


「そんな風に息をするのも苦しい。そんな本当を打ち明けるのも怖い。誰かを傷つけるのも、傷つけられるのも、ずっと、怖い」


 吐き出した熱っぽい吐息とともに言葉尻が掻き消えていく。肺の中の空気をすべて吐ききるみたいに顔を伏せると、長い前髪が彼の目元を覆い隠した。

 私は甘やかなミルクティー色に指を伸ばして、重く垂れた前髪を梳く。相模が驚いたように顎を上げた。

 そのままぬるい温度を保つ素肌に指を這わせて、両手で彼の美しいかんばせを包み込む。

 そうすると、私の好きな琥珀の瞳がよく見えた。


 ほう、とため息を零すように、まっさらな頭で呟く。


「綺麗」


 ぽろり、遅れて一粒、透明な雫が頬を伝う。


 夕姫ちゃんの言った通りだ。

 脆くて、汚れていたとしても、強く美しくあろうとする生き様こそが美しい。

 傷つけることと傷つけられること、その両方に怯えて、それでも生き抜こうとする相模の生き様がひどく美しいと感じた。

 恐怖に塗れた眼差しが、罪悪感に痛めた心が愛しいと思った。


 零れた涙を指で拭ってやると、相模があどけなく目を細める。ぴっとりと密着した肌から、彼を支配する震えが伝わってくる。


「ねえ、相模」


 蘇ったのは、いつかの放課後の光景。

 苦しくても誰かを頼ることができなくて、保健室のベッドで一人体を抱いて痛みに耐えていた私に、相模がそうしてくれたように。


「相模が私のために走ってくれて嬉しかった」


 自転車と並走する間抜けな姿が素敵だと思った。


「私のためにひなを大切にしてくれて嬉しかった」


 誰もが宇梶ひなを罪人のように扱う中で、なにも知らないはずのあなたは手を差し伸べてくれた。


「結城くんにひなを取られたみたいで拗ねてた私を一人にしなかったことも。夏休み中、家のことばっかりで頭がいっぱいだった私に、外の世界のこと忘れないようにしてくれたのも。文化祭で私と一緒に実行委員を引き受けようとしてくれたことも。私の無実を晴らすために心を砕いてくれたことも。見えないところで私の代わりに怒ってくれたことも。事件の後気を遣って、私が声をかけるまで待っててくれたことも」


 こんな風に並べた言葉じゃ足りないくらい。


「ぜんぶぜんぶ、泣きたくなるほど嬉しかったの」


 誰にも弱みを打ち明けられなくて、上手に頼れなくて孤高に陥っていた私に寄り添ってくれた。

 私の心の欠けた部分を見逃さないでいてくれた。


「私もね、痛いの。同じじゃないかもしれないけど、たまに痛くて苦しくて、一人で立つのがしんどくなることがあるの。そんなときに、」


 私の瑕疵が生来のものなのかは判然としない。一朝一夕で解決するものではないし、一生埋まることもないのかもしれない。


 支えるとか助けるとか、そんな大仰なことはいらなくて、代わり映えしない日々の中で、一番に目に映る存在があなたならいいと思う。

 心の欠けた部分が痛んだときに、寄り添ってくれる人があなたならいいと思う。

 埋められなくても、曝け出せなくても、再び一人で立てるように。


「相模が肩を貸してくれたら嬉しい」


 きっとお互いがいなくても、欠けたまま一人でだって生きていける。

 それでも相模と一緒に生きていきたい。

 だけど彼の心も人生も彼だけのもので、他人が手に入れていいものではない。だから私の結論はこれでいいの。

 文化祭の喧騒の隅っこで、彼が私を思い遣ってくれたように。私もあなたに返すわ。


 傷ついても進み続ける人生の中で、心がどうしようもなく痛んだときに、ほっと一息吐ける場所があったら、それが私たちに相応しいんじゃないだろうか。


「私は相模に肩を貸したいし、どうせ借りるなら、相模の肩がいい」


 相模の頬に添えていた手を下ろして、今度は彼の手を握りこんだ。

 剥き出しで冷え切った手。互いに指先の感覚を失いながら、それでもその奥に潜む確かな熱を探るように繋ぎ合わせる。


「相模はどうかしら。私は、相模が私と同じ気持ちだったら嬉しい」


 瞳を覗き込んで問うと、相模の喉が震えた。耳を澄ますと、細かく痙攣を繰り返す唇の奥で歯と歯がぶつかり合う音がする。


 ぽろぽろと溢れて止まらない涙が愛しい。


 涙で重くなった睫毛が震えるたびに、至近距離で細かな雫が弾ける。

 星を散らしたみたいに弾けたその小さな瞬きすらも、目が離せなくなるほどに清廉に輝いて見える。

 彼の全身から迸るすべてが美しい。


「俺も、金森さんがいい」


 ぐしゃぐしゃに歪んだ顔と掻き消えそうに掠れた声で相模はそう言った。

 私は「うん」と頷いて笑いかける。


「ん、じゃあそれでいいじゃない」

「それでいいじゃないって……」またぼろぼろと涙が溢れ出す。肩を震わせながら泣き笑いの顔を伏せた。「ほんっと、強引だなあ、金森さんは」


 強引なのはお互い様だ。

 私は床につけていた膝を持ち上げて、後ろ向きに倒れ込むように体重をかけた。

 ふわり。

 花弁が風に舞うように、相模の体が浮き上がる。


 立ち上がった勢いのまま二、三歩ほど後ずさると、二人揃ってガレージの外に流れ出す。闇を抜けた相模の甘い髪を街灯の白い灯りが眩く照らす。

 うん。やっぱり明るいところで見るほうが綺麗よ。


 握り合った手を解いて、抵抗なく倒れてくる相模の体を受け止める。

 コート越しの体を抱きしめて、彼の胸元に鼻先を埋めた。


「待たせたわね」


 幽かに震える背中を擦りながら告げると、頭上で洟をすする音が響く。


「……うん。ずっと待ってた」

「待たせた分、いっぱい報いるわ。毎日少しずつね。とりあえず、これは今日の分」


 そっと体を離して、彼の胸板に手を添える。

 そうして至近距離から涙に濡れた顔を見上げた。


「好きよ相模」


 歌うように告げると、相模の整った面立ちがぐしゃりと歪む。

 唇の端から幽かな笑みと、眦からは涙を溢れさせて、相模は下手くそに笑った。


「どうしよう、俺、金森さんのことかなり好きだ」

「どうしようと言われても」

「ど、どうする? 付き合う?」

「もう付き合ってんのよ」

「あ、そっか」


 私は別れたなんて認めてないんだからね。

 いじけたみたいに宣言すると、相模は「うん。俺も取り消す。嘘ってことにして」と軽く言い募った。

 しょうがないわね。私は都合のいい女だから、信じてやるわよ。


 二人の吐いた息が白く煙のように立ち上っては消えていく。

 それを何度か見送った頃に、相模は密やかな笑みを零した。

「なに?」と見上げると、手をきつく握りこまれる。


「知らなかった。好きってこんなに嬉しいんだね」



 そう言って相模は満ち足りたように笑んだ。





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