第21話 二人の話②
ムギさんの手にはショートサイズのカップが握られている。幽かな温もりに縋るように、彼女はそれを両手で握りしめてじっと机の一点を見つめていた。
私も何か注文するべきか……振り返ると、行列は店外まで伸びていた。カウンターの奥ではヘッドセットを装着した店員たちが忙しなく動き回っている。
諦めてレジの前を通過した。
席の前まで辿り着いて、及び腰な気持ちを掻き消すように深く息を吸い込んだ。
「ムギさんですか?」
呼ぶと、彼女がはっと目を覚ましたように顔を上げる。そうして掠れた声で「はい」と答えた。
爪先から体温が失われていく。
唾を飲んでムギさんの正面の席を引いた。肩に掛けていた鞄を膝の上に乗せる。体の芯から凍えるような心地に、コートもマフラーも脱ぐ気にはなれなかった。
「結城誠の紹介で来ました。金森深琴といいます。今日は貴重なお時間をありがとうございます」
結城くんとのやり取りを表示したスマホを目の前に掲げながら名乗ると、ムギさんは目を眇めた。
正確には、結城くんとムギさんの間には彼女と同じ高校に通うもう一人の女子生徒が介在している。そのため、ここで結城くんの名を出しても伝わらない可能性もあった。
それでもムギさんは「いいえ」と力なく首を振るだけで、私を訝るような素振りはない。
ひとまず胸を撫でおろして、私は「お待たせしてすみません」と頭を下げる。
「そういうのいらない」
ムギさんは私の目を見ないまま素っ気なく呟いた。
「用があるからここに呼んだんでしょ。早く済ませて」
苛立ちを隠そうそもせず、ムギさんは私に先を促す。
その気迫に呑まれかけながら、私は口を開いた。
「……あの、ムギさんは」
「
「へ」
「あたしの本名、加賀見つむぎ。ムギは渾名」
気安く呼ばないでほしいとでも言いたいのだろうか。
改めて「加賀見さんは」と口を切る。
「相模真成を知っていますか」
「知らない」
「えっ」
いきなり手鼻を挫かれた私を歯牙にもかけず、加賀見さんは両手を組んだ上にちょこんと顎を乗せた。
「ふうん、相模真成っていうんだ。マサくん」
薄くブラウンのアイシャドウで彩られた眼差しがはじめて私をまっすぐに捉える。目尻に細く書き足されたアイラインは、彼女の目元に鋭い印象を加えていた。あの夏の日に向けられたものと同じ、品定めするような目。
背筋を冷たいものが伝った。
「言っとくけど、あたしに当たり散らしても意味ないからね。ただのセフレだし、もうとっくに終わってるし」
「……相模とは、本当にそれ以外なにもなかったんですか」
「ないよ。ただのセフレ、体のお友達。詳しく聞きたい?」
「……結構です」
「ならあたしになんの用」
こめかみに指を添えて眩暈を堪えた私に、加賀見さんはなおも鋭い視線を向ける。
その瞳が、かえって私の心を落ち着かせた。
加賀見さんを真っ直ぐに見つめ返して、私は遂に本題を切り出す。
「相模の住所を知っていますか」
敢然とした響きで問いかければ、加賀見さんは一瞬気後れしたように瞠目する。それから唇を浅く噛み締めた。
「……知らないわ」先ほどまでの張りのある声とは違い、鎧を剝がされたように弱々しく呟く。「本当に知らない。会うときはいつもあたしの家だったから」
「おおよその位置くらいは」
「だから知らないって。あたしたち、お互いのことなんてほとんどなにも知らないの。マサくんはそこまで踏み込ませてはくれないから……」
肩を落とした加賀見さんに知られないよう、私はそっと胸に詰まっていた空気を吐き出す。
相模と深い関係である加賀見さんならと思って接近したのに、完全に当てが外れた。
相模と本音でぶつかるためには、彼がクズの仮面を纏わなくて済むよう誰の目にもつかない場所で、一対一で顔を合わせる必要があった。
相模は自転車通学、対して私は徒歩通学のため、下校する彼を追跡することは困難だ。
追いかけることが叶わないなら、待ち伏せてやればいい。
絶対に逃げられない場所。相模の自宅しかない。
タイマン上等。
覚悟を決めてこの場に臨んで、結局伸ばした手はなにも掴めない。
……それでもいい。
彼に手を伸ばすためだけに、今日ここにいる私ではないのだから。
「あなた、マサくんがどんな人か、本当に知ってる?」
「はい」
控えめに尋ねた加賀見さんの瞳には私を案じるような色が浮かんでいた。
私の知らない相模を知っている彼女のことだ。相模の中に潜む淀んだ部分を、私よりも深く覗いてしまったのかもしれない。
「それでも、それでも相模がいいんです」
だけど私ももう揺らがない。
毅然とした態度とともに微笑を浮かべてみせれば、加賀見さんはぐっと眉根を寄せて苦し気に目を細めた。
「そう、あなたが……」
呻くみたいに呟いて、眩しそうに細めた目で私を見つめる。白い喉が嗚咽を堪えるように震えている。やがて首ごと顔を逸らすと、遠くに視線を投げながら震える声で呟いた。
「……マサくんだけずるいなぁ。あたしとおんなじクズのくせに」
そうかもしれない。けれど、私は今、そんな彼の穢れも背負うつもりでここに来た。だからここで私が口にするべきことは定まっている。
「加賀見さんも、相模に傷つけられたことが?」
「……さあ」躊躇いがちに答えて、加賀見さんは私を見ないままに言い添える。「そうですって言ったらどうする?」
それを口にすることに躊躇いはなかった。
居ずまいを正して、なるべくまっすぐに加賀見さんを見据える。
「ごめんなさい。でも、幸せになります」
加賀見さんは幽かに息を呑んで私を見た。
その瞳に薄く膜が張っていく。朱の強いリップで彩られた唇は震えている。
目を焼かれたみたいに細めて、加賀見さんは湿った吐息を吐き出した。
「なんであなたみたいな人が、マサくんなんか」
私は静かに微笑を残して、腰を持ち上げた。
膝に乗せていた鞄を肩に掛けて、加賀見さんに一礼する。
「失礼します」短く告げて店を後にした。
冷え切った強風が街路樹を激しく揺らす。コートの襟もとを手繰り寄せた人々が逃げるみたいに適当な店に飛び込んでいくのを何度も見送った。
アスファルトの端では踏みしめられて硬くなった雪が靴底の形をした泥を滲ませている。
ひと際強い風にマフラーを掻き寄せながら私も駅までの道を急いだ。
道中、視界はどこも執拗に点滅する煌びやかなイルミネーションで満ちていた。
脳裏を埋め尽くすようにしつこく鳴り響くクリスマスソングが、私に遠い記憶を思い起こさせる。
サンタクロースの正体が母であることを悟ったのはいつだったか。
両親の些細な口論が増えた頃か、あるいはもっと後の、クリスマスが近づくにつれて日々やつれていく母が、とうとう夜間でさえも家を空けるようになった時期かもしれない。
ぼろぼろのぬいぐるみを抱きしめて眠る湊を起こさないよう、玄関でブーツに片足を突っ込んだ母の両肩を掴んで駄々をこねた。
プレゼントなんていらないから傍にいてほしいと、サンタクロースではなく母に何度も願った。
けれど私が些細な願いを口にするほどに、母は困ったように笑うばかりで、やがて私は自身が敬愛する母を追い詰めていることを悟ったのだ。
そうして今度は、私が願いを叶える立場となった。
湊さえいれば他にはなにもいらなくて、湊の願いが私の願いであると言い聞かせた。
そうやって我慢するうちに、本当に自分が欲しいものさえわからなくなってしまった。
今思えば、私の中には欠けた部分があって、私はそれすらも湊に求めようとしていたのだと思う。私の望むものは家庭にしかないものだと思い込んでいた。
だけど違った。
彼が教えてくれた。
もしも、今まで我慢した分、願いを叶えてもらえるなら。
優等生特権が使えるなら。
私は、相模が欲しい。
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