2学期

第21話 二人の話①

 私が壁に掛けられた時計を確認すると、正面に座っていた夕姫ちゃんもそれに倣って顔を上げた。


「もう時間?」

「そろそろ支度するわ」


 期末テスト直前の賑わいも既に懐かしい。放課後の図書室には私と夕姫ちゃん以外生徒の姿はない。おかげで気兼ねなく言葉を交わせた。


 十二月も終盤となると、一層寒さが増す。

 図書室内はカウンター脇に設置されたヒーターが稼働し続けているおかげで快適に過ごせるが、一歩廊下に出るとあまりの寒さにまともに立っていられなくなる。

 登下校には明ちゃんに貰った分厚いダウンコートが欠かせない。


「いよいよね」


 机の上に広げられた地図に指先を這わせて、夕姫ちゃんがそっと呟く。

 A3サイズの地図には市内の地形や建物が記されている。所々の書き込みや付箋は、私と夕姫ちゃんが日々付け加えたものだ。

「うん」首肯しながら、私はLINEを起動して結城くんとのやり取りを見返した。


 十七時に駅近くのスタバ。

 うん、間違いない。


 結城くんに依頼していた調査は恙なく完遂され、私は遂に本件の最重要人物との接触が叶うのだ。それがまさに今日。意識的に深く息を吐き出す。


「緊張しているの? 今更ね」


 夕姫ちゃんにはすべてお見通しのようだ。


「ちょっと殴り込みに行くだけでしょう。あなたほどの人がなにを気にするというの」


 急に輩みたいなことを言い出す。私を鼓舞してくれているのだとわかった。


 彼女の言う通り、本来、こんなにも気負う必要性などどこにもないのだ。

 今日はあくまで最終目標に向けての通過点であり、たとえ収穫が得られなかったとしても、今日までに積み上げた別の方法がある。


 校内で顔を合わせようとすれば、聖山くんに殴られた日のように、私を傷つけようとわざと心無い言葉を吐くであろうことは想像に難くない。わざわざ彼の心を締め付けるような真似をせずとも、接触するなら別のやり方がある。

 それこそまさに今、夕姫ちゃんの頭脳を借りて進めている秘策。


 この一か月、相模とは一切の接触を断っている。

 相模を取り巻く状況については、なんら懸念はない。

 なんせ愛しの親友が寄り添ってくれているのだ。これ以上心強いことなどなかった。


 ひなも結城くんも夕姫ちゃんも、なにかを厭う素振りすらなく私に手を差し伸べてくれる。

 家庭もそうだ。

 意を決して進学したいと伝えると、両親は肩透かしを食らうほどあっさりと承諾してみせた。

 勝手に気負って諦めていたのがバカみたい。


 明ちゃんに貰ったコートに袖を通す。隣の椅子の背もたれに掛けてあったマフラーを首に巻いて、私は思い出したように口を開いた。


「夕姫ちゃん。あの日私を助けてくれてありがとう」

「今更ね。けれどどういたしまして」

「私、夕姫ちゃんのこと、一瞬でも疑いそうになったことがあるの。ごめん」


 あらゆる問題から解放されたからといって、過去に受けた恩を忘れるつもりは毛頭ない。

 差し出された心に報いたいと思うのは相変わらずだ。


「そう。わたしも深琴ちゃんのこと、相模くんに好かれるほどヤバい人だと思っていたから、これでおあいこね」


 私の覚悟も感慨も打ち砕くようにさらりと暴露した夕姫ちゃんに、思わず苦笑が漏れる。


「それと相模が迷惑かけてごめん」

「いいの。なんとも思ってないから」


 この場合のなんとも思ってないは、気にしていないというよりも本当に心の底から相模に対して無感情なのだと思う。

 ……私のためにしてくれたことだけど、相模が不憫に思えてきた。いや、それでも相模が夕姫ちゃんの気持ちを踏みにじったことは事実だ。


「今度絶対相模に謝らせるから」

「わたしは気にしてないけど」

「私が気にするので」


 夕姫ちゃんは「そう、なら待ってるわ」と答えた。

 夕姫ちゃんのこういうあっさりしたところが、私はこの一か月でかなり好きになっていた。如何なる状況でも変わらない彼女の在り方に勝手に背を押された気になって、力強い首肯を送る。


「うん。待ってて。それじゃあ行ってくるわ」

「いってらっしゃい。ご武運を」


 武人か。

 苦み走った笑み浮かべながら図書室の入口へと向かう私の背に、夕姫ちゃんはなおも続ける。


「あなたが差し出した心が、どうか報われますように」


 私はその場で足を止めて夕姫ちゃんを振り返った。

 そうして静かに微笑を返す。


 結局私も相模も、上手に人に寄りかかることができないのだ。

 相模は誰かに寄りかかる方法を利用することしか知らない。

 私は人に弱みを見せられず、寄りかかることに罪悪感を覚えてしまう。


 罪悪感上等よ。

 まだ怖いけれど、私の周りには私を信じ支えてくれる人が大勢いる。


 報いるのは私の方だ。

 私は、私の想いに報いたいと言ってくれた、相模の心に報いたい。







 灰色の雲が重く垂れ込めている。

 今朝登校中に見た遠くの山は、山頂部分が白く雪を被っていた。夜中の間にはこっちの方でも降ったらしい。家を出たときにはほとんど溶けてしまい、アスファルトに黒く歪なシミが描かれていた。


 びゅうとひと際冷たい風が吹きつけて、マフラーに口元まで埋めた。そのうちホームに列車が滑りこんできて、逃げ込むように乗車する。


 車内には学生の姿が多い。

 スーツを着た社会人と思しきシルエットもちらほらと目に付くが、この時間ならまだ少数だ。それが胸から溢れそうなほどの安堵を私にもたらす。


 来週、いよいよ祖母の家を離れて家族四人での生活が開始する。

 徒歩で登校できる範囲を超えてしまうため、電車通学に切り替えるつもりだ。迫る期日と裏腹に、私の気持ちはまだそこに追い付けてはいない。


 未だに駅や車内で成人男性とすれ違うたびに心臓が熱をもつ。

 こんなんで来週から本当に大丈夫なのかしら……嘆息して、空いている席に腰を下ろした。


 足元から熱すぎるほどの温風が強く吹き付けている。温もりが心地よい。そのうちに目的の駅に到着する。

 私は足早に冷えた空気の中へと飛び込んだ。




 駅から数分歩いたところにコーヒーショップがある。私は結城くんを経由して、そこで彼女と会う約束を取り付けていた。


 忙しなく点滅を繰り返すイルミネーションの隙間をすいすいと風を切って通り抜ける。

 やがて目的の建物に到着して、硝子の外側から店内の様子を窺った。


 入口を入ってすぐのところまでレジの行列が伸びている。

 私は最後尾に立つことなく、その横をすり抜けて店内へ進んだ。そうして流麗な線を描く黒髪を視界に認めて、どきんと心臓がひとつ跳ねる。


 ドリンクを受け取るカウンターからほど近い二人掛けの席で、ムギさんは彫刻のように冷たい面差しを伏せて私を待ち受けていた。



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