第20話 独白③

「ふざけるなよ相模ッ!」


 強い衝撃になにかを思う間もなく体が傾く。

 咄嗟に傍らのパイプ椅子に手が伸びて、結局転倒を阻止することは叶わずに周囲の物を巻き込みながら派手に転がった。


 がしゃん!


 パイプ椅子諸共倒れ込み、背中を本棚に強く打ち付ける。衝撃で抜け落ちた雑誌が脳天を直撃して、ばさばさと音を立てながら俺の体を滑り落ちていく。

 倒れたペン立てから何本ものペンが床に散る。散乱した書類に並ぶ『部員募集中!』という太いマジックの文字に、思わず喉の奥から短い苦笑が漏れて、噎せ込みながら吐き出した。

 こんな暴力部長のところに、後輩なんて集まるかよ。


 ぐしゃぐしゃに乱れた髪の隙間から目の前の男を睨むように見上げた。


 聖山ひじりやま亮司りょうじは見たこともない、ものすごい剣幕で俺を見下ろしていた。血走った目つきと獣のように荒く低い息遣いが、彼がひどく興奮していることを教えてくれる。

 当然、彼をそんな状態に追い込んだのは俺だった。


 金森さんを裏切っていたことが聖山くんに知られて、人が集まる前の部室へと呼び出された。二人きりで聞きたいことがあると言われ、ムギちゃんとの関係、金森さんを欺いていたこと、そうして彼女を手酷く打ち捨てたことを洗いざらい吐き出した。なるべく彼女を遠ざけられるよう、尾ひれをつけて。


 気づいたときには聖山くんの拳が俺の頬にめり込んだ後だった。

 ややあって、頬に灼熱が広がる。

 殴られた箇所だけじゃない。顔の内側が燃えるように熱い。


「聖山くん!?」


 ひどく焦ったような声が鋭く飛んでくる。

 入口のあたりから忙しなく届く複数の足音に、俺はようやく上体を起こした。そうしてあの鮮麗な瞳を視界に映す。


 ああ、どうして。

 どうしてまた俺の前に現れてしまったんだ。こんな風に顔を合わせてしまったら、今度こそもっと傷つけなくちゃいけないじゃないか。

 どうして、あの黒髪が揺れるだけで、高潔に輝く瞳を映すだけで、胸が高鳴って、視界が霞んで、こんなにも痛い。


「お前に、金森のなにがわかる」


 拳を強く握りこんで、聖山くんは眉を吊り上げ震える声で吐き捨てる。

 腸が煮えくり返る思いがした。


 わかるよ。

 あんたなんかより、俺の方がずっとわかってる。


 俺よりも金森深琴の高潔な心に魅せられた人間など存在するものか。

 誇り高い信条を貫こうとするあまり己の心を縛り付けて、いつだって望む自らの姿に手を伸ばして、必死に足掻いてきた彼女を、俺は余すことなく隣で見つめてきたんだ。


 傷ついても挫けない眼差しが美しい。藻掻き続ける横顔が愛おしい。自分のために涙すら流せない高潔さが痛ましい。


 中学から隣にいただけのあんたなんかよりも、俺の方がずっと金森深琴を想っているんだ。


「はっ。出たよマウント。聖山くんには金森さんのこと、なんでもわかっちゃうんだ」

「わかるよ。ずっと金森の隣にいたんだ。金森のことならなんでもわかる。僕が一番知ってるんだ。僕が、ずっと……なのに、」


 そうして聖山くんはそれを口にした。


「相模なら任せてもいいと思ったのに、どうして」


 涙を堪えるように眉間に皺を寄せて、憐憫に揺れる瞳が俺を貫く。

 一瞬、嘘で覆い隠した本当の俺が頭をもたげそうになった。


 そんな目で見るな。俺は金森さんを想っているから、今を選んだんだ。


 胸から溢れそうになって、聖山くんの背後、痛まし気に拳を握りしめた金森さんを捉えた瞬間、強靭な理性が喉元で言葉を堰き止める。


 泥を被ったみたいに視界が淀んでいく。

 本音を押し殺して残ったのは、もう手放したと思っていたはずの、クズの相模真成。


「何様のつもり? ただの同級生のくせして、俺と金森さんの問題に口挟まないでよ。そんなに気に入らないなら聖山くんが金森さんと付き合ったら? ほら、あの後輩ちゃんのことなんて捨ててさ」

「このッ、」

「相模!」


 瞳から激しい憎悪を迸らせた聖山くんを鋭い声が制する。

 背後から抱きすくめるように縫い留めて、大きく体を揺らしながら聖山くんが俺に届かないように抑えつけてくれる。

 けれどそれは、俺を想ってのことではなかった。


「離せ金森っ」

「絶対嫌よ! 離したら殴るんでしょ!?」


 一瞬聖山くんの肩越しに交差した視線ですぐに悟る。

 大切な人に、誰かを殴るようなクズに堕ちてほしくないんだね。

 君はそういう人だ。


 焦燥に彩られた瞳が愛しいと思った。

 そうして胸の奥に焦げ付くような嫉妬と寂寥感が芽生える。

 君はもう、俺を想ってはくれないのだろう。

 自分で仕組んだくせに、奈落の底に突き落とされるような絶望に駆られる。だけどこれでいい。


「やめて相模!」


 益々彼女を遠ざける鋭利な言葉を吐こうとして、まだ一音も発しないうちに咎められた。

 ねえ、なんでわかっちゃうの?


「お願い……もうやめて」


 今にも泣き崩れてしまいそうに弱々しい声。

 濡れた瞳が悲哀に大きく揺らいで、俺は言葉を失った。




 聖山くんが金森さんに連れられて廊下へと消えていくと、辺りには耳鳴りがうるさく感じるほどの静寂が満ちた。


「……相模」


 俺の目の前にしゃがんだ結城くんが手を伸ばす。起こしてくれようと肩に添えられた手を力なく振り払った。


「やめて」


 言って、自分で驚いてしまう。

 俺は涙を流していた。

 嗚咽に掠れた声が空間を揺らして、宇梶さんが幽かに息を呑む気配がする。

 決壊したダムのように溢れた言葉が止まらない。


「金森さんには言わないで」


 殴られた痛みからだろうか、生理的な涙が湧いてきて、瞼をきつく閉じて堪える。


 金森さんが傷ついた顔をしていた。

 俺が彼女の心をずたずたに切り裂いたから。


 俺が望んだことなのに、これ以上ないくらい俺の心を苦しめる。

 殴られた頬が熱を持っている。顔の痛みなんて気にならないくらい胸が痛い。


 ムギちゃんや聖山くんに殴られたって嬉しくない。

 俺が本当に殴られたかったのは金森さんだ。「大抵のことは殴って許す」と軽口を叩いてみせた彼女に思い切り殴り飛ばされたかった。

 殴って、許して、俺を打ち捨てて。

 そうして彼女の世界から姿を消して、一人で地の底へと戻ろう。誰に恨まれても構わない。たった一人金森深琴に許されないことがなにより恐ろしい。


 結城くんを押しのけるようにして俺の目の前にしゃがみこんだのは宇梶さんだった。

 涙に塗れた瞳には毅然とした色が宿っている。


「わかるよ」


 宇梶さんは胸の前で両手を握りしめて俺を上目遣いに見つめた。


「だからもうやめて」

「……無理だよ」


 ここまで来てしまったら、もう戻れない。

 なのに宇梶さんは。


「約束したでしょう。いつか相模くんのこと助けるって。今なんだよ」


 ついに眦から透明な雫を溢れさせながら、俺に言い募った。


「相模くんと深琴ちゃんがひなの気持ちを黙ってくれてたこと、知ってるから。ひなも言わない。だけどこれだけはお願い。ちゃんと深琴ちゃんと話し合って。相模くんと深琴ちゃんはおんなじだから」


 長い睫毛が雫を弾く。

 金森さんの愛する、善良な涙だった。


「大好きな二人がすれ違ったままなんて、ひな嫌だよ」


 どうして彼女の周りに集まった人たちは、こんな俺を見捨ててくれないのだろう。


 俺が金森さんを傷つけた存在として知れ渡れば、未だ彼女を覆う不名誉な噂を塗り替えることができると思った。


 被害者というレッテルを張ることで。


 それは俺がかつて経験した、吐き気を催すような地獄を彼女に押し付ける行為。その残酷さを知りながら、それが彼女を守る唯一の方法であることも理解している。俺に与えられた選択肢は一つだけ。


 そう思い込んで、涙に濡れた金森さんの瞳を見て体が震えた。

 やはり俺は彼女の傍にいてはならない存在なのだと思い知らされて、俺は一人部室を後にした。




 それからひと月、金森深琴と俺の交わりは絶えた。


 これでもう俺は、彼女と出会う前の、彼女を知る前の底辺に戻るだけなのに。それだけのことが、こんなにもつらく苦しく、恐ろしい。



 彼女の生き様は俺の弱さを見せつけるような残酷なものだったのに、彼女はけして俺を否定しようとはしなかった。憐れみも、侮蔑も、無責任な理解もない。ただ「信じる」と、俺が一番欲しかったものをくれたのだ。


 ねえ金森さん。

 俺がどれだけ君に救われたか知ってる?

 俺がどれだけ君に焦がれているか知ってる?


 理解して、許してほしいのと同じくらい、奥底に潜む弱い俺を知られるのが恐ろしい。




 こんなに怖いなら、はじめから底辺で燻っていればよかったんだ。

 そう確信して、今度は自身の心を手折ろうとした。


 なのに、どうして。







 街灯の青白い灯りの奥にその輪郭を認めた瞬間、驚きのあまり強くブレーキを握りこんでしまった。きい、自転車が派手な音を立てて、その人が俺の存在に気づく。


 寒がりな彼女に相応しい分厚いダウンコートのシルエットが、自宅のガレージの白い背景を得てくっきりと浮かんでいる。

 首元を覆う純白のマフラーから溢れた髪の束が流麗な線を描き出す。顔を上げた拍子に零れ落ちる一瞬の煌めきすら眩しい。


 いつもは頼りない街灯の朧な光すら、このときばかりは彼女を照らすスポットライトのように感じられる。

 吐き出した息が白く立ち上っていくのを見届けた彼女は、俺が心底愛した鮮麗な瞳をそのままに、俺を視界に映した。


「おう。来たな」


 白いマフラーに口元まで埋めて、真っ赤な鼻先を覗かせた彼女が、俺を待っていた。




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