第20話 独白①

 思い返せば、予兆は六月の時点で見られた。


 それは六月のある日。

 教室に見慣れた黒髪が見つからない。俺が登校すると大抵金森さんは先に教室で待っているのに。

 訝しんで彼女の席を覗き込むと、机の横にスクールバッグが引っかけてある。


「ねえ、金森さん見てない?」


 適当な人を見繕って尋ねてみると、その子は赤らんだ顔で俺を見上げた。


「なんか金髪の人に連れてかれたよ」

「金髪……?」

「うん。私が来たときにはもう金森さんの席に座ってて。サンダルの色的に三年生じゃないかなあ」


 なんかすっごい距離近かったし、仲いいのかな。

 聞き捨てならないセリフが耳に飛び込んで、弾かれたように教室を飛び出した。


 帰宅部な上に日陰者の金森さんに親しい先輩なんているわけないでしょーが!


 大慌てで階段を駆け上がる。迷いなく三年のフロアに飛び込んで、踊り場を出てすぐの教室に、蛍光灯の白い光を弾く黒髪を見つけた。


「金森さんっ」


 沸き起こる歓声の中心で金森さんがぱっと振り向く。

 俺を捉えた金森さんの瞳は、心なしか安堵に緩んでいるように思えた。それを見て、俺も人知れず胸を撫でおろす。


 気に入らないのは、そんな彼女の細い肩をがっちり固定する青白い男の手だ。


 やなぎ楓馬ふうまは、せっかく収まるべきところに収まりかけた俺たちの仲をいとも容易く搔き乱した。


 彼氏でもないくせにべたべた彼女に触れて、まるで自分の所有物みたいに彼女を支配しようとする。

 極めつけは俺から取り上げようと、彼女を唆したのだ。

 奪われてしまう。直感的に察した。


 なんとか彼女を繋ぎ留めようと試行錯誤しているうち、狙ったようにチャンスが訪れる。

 昼休みに体調を崩した金森さんを保健室まで運んだ。

 放課後、金森さんのスクールバッグを抱えて保健室へ飛び込むと、彼女はベッドの上で上半身を起こして派手に飛び跳ねた。


 俺の腕に収まっていたときは真っ青な顔をしていたから、多少回復したのだろうか。

 ひとまず安堵に胸を撫でおろして、ベッド脇の椅子に腰を下ろした。


「ごめん、持ってきてくれたんだ」

「別にいいよ、これくらい。どう、痛み引いた?」


 ぎゅっと眉根を寄せて、金森さんは沈鬱な面持ちで首を横に振る。


「そっか……」


 俺は心配する振りをして、本心では喜んですらいた。

 ようやく弱みを明かしてくれた。彼女の心に踏み込む隙ができた。

 俺の利用価値を示すなら、ここしかない。


 役に立ってみせれば傍に置いてもらえると思った。


 だけど俺の目論見と裏腹に、金森さんはけして首を縦に振ろうとはしなかった。

 最後の方はほとんど意地になって言い募ってみせると、益々頑なになってしまう。そうして苦し紛れみたいに放たれた言葉が俺の胸を穿った。


「相模。こんなことしても、私は相模を好きにはならないわ」


 切れ味のいい刃物で切り付けられたみたいに、言い逃れの余地もないほど鮮やかに線を引かれてしまう。

 心中を見透かすような瞳に真っ直ぐに貫かれて、俺は言葉を失った。


 ……潮時かな。


 このまま身を引くべきだ。なのにどうして俺は、彼女を諦めきれないのだろう。

 瞼の裏側に、俺のことを信じると告げた瞬間の彼女の眼差しが鮮烈に蘇った。


「俺、信じてもらえて嬉しかったよ」


 胸の内から溢れたのはそんな言葉だった。


 俺を心から信頼してくれる、一点の曇りもない澄んだ瞳。

 思い出すだけで体の芯が歓喜に震える。そうしてその目が、俺に自身の罪を叫ぶのだ。


「好きになってほしいからじゃないんだよ」


 嘘だ。好きになってほしいから、傍に置いてほしいから、金森さんの役に立ちたかった。彼女を繋ぎ留める手段として、寄り添うことを選んだはずだった。

 力なく紡ぎ出された言葉は偽りのはずなのに、無意識に胸から溢れたように、不思議な説得力に満ちていた。


「利用してよ」


 次いで口をついた言葉で、俺は自身すらも見抜けなかった、心の奥底に潜んだ本音を悟る。

 固く閉ざした心の奥で、弱い俺が叫んでいる。


「俺ばっかり、金森さんを利用してる」


 些細な幸福を享受するたびに、彼女のことを大切に思うほどに、犯した罪が浮き彫りになる。

 じくりじくりと胸を蝕むそれは、罪悪感だった。







 胸の底で芽吹いた罪悪感は、恋という養分を得てむくむくと背丈を伸ばしていった。



 校内放送で金森さんが呼ばれて、教室が騒然とする。

 一応様式美と知りつつ「金森さんなにやらかしたの」と尋ねれば、金森さんは黒髪を乱れさせて「知らない知らない!」と激しく首を横に振った。

 俺もだろうね、と頷く。

 金森深琴が、教師に咎められるような失態を犯す訳がないだろう。


 彼女の高潔さを一番近くで浴びてきた俺は、一切の疑念も抱かずに金森さんを送り出した。

 そんな風に手放しで信用してくれる人間は限られていたのに。


 翌日には、金森深琴が先の中間テストで不正行為に手を染めたという根も葉もない噂が二年一組の教室中に浸透していた。

 誰も金森さんの言葉に耳を傾けようとしない。鼓膜を通る流言を疑う素振りすら見せない。


 どす黒い怨情とやるせなさが胸を占めると同時、今度こそ罪悪感などではなく、彼女を想う故にその心に報いる機会が与えられたのだと直感した。


 俺が金森さんのために心を砕ける一世一代のチャンスは今しかない。

 確信して、金森さんの無実を晴らすために鹿島かしま夕姫ゆきに接近した。


 そうしてそれが大きな誤りだった。




「相模。クラスLINEに戻って」


 どうして彼女がそれを知っているのか、心底不思議だった。

 クラスLINEなんて形式的なもので、登録していない人も多い。金森さんや宇梶さんもそういったタイプだ。だから、俺がそこでなにをしようと金森さんに知られることはないと踏んでいたのに。

 ……さては結城くんか。


 俺がクラスLINEから退出したことを知った金森さんは、翌日には説得に現れた。

 今本当に大変なのは、彼女自身のはずなのに。

 どうしてこんなときでさえ、俺ばかりを見つめてくれるんだ。


 嬉しいなんて到底思えなかった。

 もっと自分自身を労わってほしい。俺や周りの人たちを頼ってほしい。いつでも俺たちのために心を砕いてくれた君のためなら、心を差し出すことを厭う人なんて、君の近くには一人もいないのに。


 周囲からしたら一目瞭然の事実が、一番届いてほしい人にだけ絶対に届かない。


 擦り切れる直前まで追い詰められても、金森深琴は孤高を保ち続けた。

 視界が霞むほどの眩しさに、痛ましさに、まともに見つめていられなくなる。


 誰も彼女の気高い心を手折ることなど叶わない。

 圧倒的に強く、美しい。俺みたいな凡人には手の届かない遙か高みで、金森深琴は光を放つ。


 そんな彼女に見惚れているうちに、奥底へと隠されていたSOSを見逃した。

 針谷という男が金森さんを襲ったらしい。

 俺がその事実を聞きつけ、金森さんの元へと辿り着いたときには、幕は引かれた後だった。応接室から出てきた彼女の、ぐったりと生気のない横顔。光を弾く艶やかな黒髪は、このときばかりはすべての光を吸収するようにどす黒く映った。


 金森深琴の高潔さが危うさを孕んだものだと、俺はずっと気づいていたのに。



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