第19話 誠実になりたい④

 自転車は涼秋の風を切って進んでいく。


 見慣れたマンションの麓で路肩に停車させた。

 いつもは駐輪場に停めているけど、今日は不要だ。躊躇はない。すぐに終わらせるつもりだった。


 エントランスまで進んで『着いたよ。降りてきて』と送信する。

 すぐに既読がついた。予想通り『なんで?』と返って来たので、手短に『お願い』とさらに重ねる。


 数分その場で待って、自動ドアの奥からその人がやってきた。

 ラフな部屋着姿で白い脚を無防備に晒した女の子。片手には剥き出しのスマホが握られていて、空いている方の手で胸元まで垂れた黒髪を梳いている。

 不機嫌そうに唇を尖らせて、ムギちゃんは大袈裟なため息を吐いてみせた。


「わざわざ迎え来なくてもよくない?」

「うん。ごめん」


 俺が神妙に頷くと、ムギちゃんは「まあいいんだけど……」と身を引いた。なんだかんだでこの人も俺に甘い。理由はわかりきっていた。


 俺とムギちゃんが出会ったのは高校一年の頃、SNSがきっかけだった。

 ムギちゃんは市内の女子高に通っていて、多分、年は俺とタメか一つ上。それ以上の素性は知らない。

『ムギ』というのは彼女のSNS上の名前だ。本名は知らないし、それは彼女だって同じ。

 ムギちゃんは俺を『マサくん』と呼ぶ。当然、俺がSNSで使用している名前だ。


 互いの名前も、正確な年齢も知らないまま、俺たちはこうして都合が合えばムギちゃんの家に呼び出され、体を重ねている。


「ねえ、早く上いこーよ」


 どこか苛立った様子で促される。白い手が伸びて俺の腕に絡まった。

 上目遣いに俺を見上げる。俺の体を求める欲深い瞳。


 ムギちゃんは寂しい人だった。

 多忙な両親は夜でも留守にすることも多く、彼女はひと月のほとんどを一人で明かしている。そうしてなにより欲しい想い人には見向きもされない。

 俺はその人に容姿が似ているのだそう。

 行為の後、一度だけ教えてくれたことがある。

 

 要するに、本物が手に入らない寂しさを、俺という紛い物で埋めているのだった。


 俺は性欲の処理と、中学のあの日植え付けられたトラウマを払拭するように。

 ムギちゃんは誰からも見向きされない孤独と、本物に手が届かない寂しさを胡麻化すように。

 互いの体を求めて、利用し合うだけの関係。


 だけど今日の俺は、そんな爛れた利害関係に終止符を打つためにここに立っている。


 ムギちゃんが自動ドアの方へと一歩踏み出す。

 俺は彼女には伴わず、縫い付けられたようにその場に留まった。腕に添えられていたムギちゃんの手がするりと解ける。驚いたように彼女が振り返った。


「ごめんね。もうムギちゃんとはできないよ」


 薄くメイクの施された目がゆっくりと見開かれる。それからスイッチを切り替えたみたいに、急激に温度を失った。


「ふうん。なんで?」

「好きな人ができたから」


 ムギちゃんが目を眇める。

 赤く色づいた唇がいやらしく歪んだ。


「ああ、わかった」しっとりとした声音には、責めるような色が強く浮かんでいる。「あの子だ」


 ムギちゃんと金森さんは、夏休みに一度だけ顔を合わせたことがある。

 あの後散々問い詰められて、俺は結局彼女の正体については曖昧に濁しただけだった。しかし女性の鋭さは侮れない。

 俺が無言を貫くほどに、肯定の色が深まるのを感じた。


「それがマサくんにとっての本物?」

「うん。だからもう、俺たちの関係はここで終わりにしよう」


 誠実になりたいんだ。

 言い添えると、ムギちゃんは短く鼻で笑った。

 そうしてゆったりとした足取りで俺の目の前まで歩いてくると、真下から至近距離で俺の目を覗き込んでくる。

 吐息が交わるほどの距離で、ムギちゃんの蠱惑的な声が響いた。


「今更ね。散々裏切って来たクズのくせに」


 ああ、本当に。返す言葉なんて見つかりっこない。

 はじまりからして、俺は金森さんを裏切ってきた。彼女の心を踏みにじって、今日まで彼女になにも知らせないまま、俺だけ救われようとしている。

 まったく卑しくて同情の余地もない、最底辺のクズ野郎。


 だから生まれ変わろうと思った。


 覚悟を決めて、一つ息を吸い込む。


「ムギちゃんも、もう偽物に縋るのはやめなよ」

「……は」

「茶髪に戻しなよ。黒髪似合ってないから」


 ぱちん!

 乾いた音。俺を殴った反動でムギちゃんが数歩後ずさる。

 やや遅れて張られた頬が熱を持ち出した。鼓膜の奥では至近距離で響いた破裂音がまだ鳴りやまない。

 ムギちゃんは興奮した獣みたいに荒い呼吸を繰り返して、血走った目で俺を睨みつけた。


 この人を抱いていると、金森さんを抱いているような、悪いことをしているような気持ちになって、歯止めがきかなくなる。彼女のことを大事にしたいのに、時折どうしようもなくめちゃくちゃにしたいと感じる瞬間がある。

 そのたびに、俺はきっと彼女を幸せにはできないのだろうと絶望に襲われて眩暈がした。


 ムギちゃんの地毛は茶髪だ。

 わざわざ黒髪に染めたのは、想い人を振り向かせるため。

 だけどお兄さんの望む本物の真似をして姿形を揃えても、益々ムギちゃんが彼女の忌み嫌う偽物へと堕ちていくばかりだ。

 黒く染めなくたって、本来の茶髪は美しかったのに。


 最後まで口には出さなかった。

 彼女がそれを言ってほしいと願っている相手は俺じゃない。


「今まで利用してきてごめんなさい。ムギちゃんもきっと、」


 幸せになってほしい。

 伝えたところで怒らせてしまうのは容易に想像ができた。

 舌の根元まで出かかった言葉を寸前で飲み込んで、俺は静かに頭を下げる。

 それが俺とムギちゃんの結末だった。







 エントランスを出て、路肩に停めてあった自転車へと戻る。

 そっと手を這わせたサドルは、まるで何時間もそこに打ち捨てられていたみたいに冷え切っていた。

 夜風が首筋を撫でると思わず体が震える。ふいに見上げた夜空には、いっとう眩しく輝く白い星が見えた。


 相手を利用するような不誠実な在り方は、もう終わりにしよう。

 正しく恋をして、正しく向き合って、正しく慈しむ。

 彼女の隣に相応しい、そんな誠実な人間になって、いつか彼女の心に報いてみせる。


 だからどうかそれまで、一番近くで見守っていてほしい。







 だけど、そんな俺の願いと裏腹に、金森深琴の美しい心が見るも無惨に傷つけられたのは、その直後のことだった。





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