第19話 誠実になりたい②
「相模が心を差し出してくれたから、私も報いたいと思ったの」
一学期の期末テストが迫る中。
四人での勉強会後にも居残っていた俺に付き添っていた金森さんが、照れくさそうに顔を逸らしてそう言い放った。
どきりと心臓が大きく跳ねる。
心を差し出した? 俺が?
思いがけずもたらされた言葉で、俺ははじめて金森さんに心を曝け出していたことを悟った。
心を見せるのは怖いことなのに。
どっどっど……胸の高鳴りに不快感はない。
それは中学のあの日以来、はじめての感覚。誰かに心へ踏み込まれていたというのに、恐怖も痛みも伴わない。熱を帯びた吐息ばかりが半開きのままの唇から漏れる。
俺が打ち明けた心の弱さに、金森さんは同じように心を差し出そうとしてくれている。
利用するのではないのだ。
与えて、報いる。
ようやく俺の望む生き方が見つかったように思えた。
そこからの俺は滑稽なくらい金森さんに対して無防備になっていった。
中学二年のあの日、心当たりのない恋人という存在に手酷く打ち捨てられてから、俺は一生恋愛ができない体質なのだろうと思っていた。
みんながきらきらした眼差しで語る恋や愛は、俺の世界にはひどく恐ろしいもののように映った。どうしてみんな、あんな無邪気に心を差し出せるのだろう。
だから金森さんに淡く心を寄せても、まさかそれが恋なんて欠片も思わなかったんだ。
初夏の長雨が明けた七月。衣替えを経て、半袖から伸びる素肌が眩しい季節が到来する。
寒がりな金森さんはYシャツの上に紺色のサマーベストを着用していて、エアコン対策として椅子の背にはブレザーが掛けられている。
過剰に意識している自覚はあったけど、俺にはそれが無性にありがたかった。
薄手のYシャツでは、下着のラインが透けてしまうことがある。
ボタンとボタンの隙間からその色が覗いた日なんて、もう最悪。
金森さんのそんな部分、自分で見てしまってもどきどきするし、誰かに見られてももやもやする。想像するだけで気が狂いそうだ。
このままガンガン教室を冷やして、全女子に厚着させたいくらい。
だけどこうした問題は、意外と女子の方が鈍感だったりする。
日直の仕事として板書を消そうと、金森さんが黒板前に立ったのが見えた。
「あっ俺やるよ!」
「別に手伝わなくていいのに」
「金森さん、ベストが汚れちゃうでしょ」
「あー……そっか」
黒板消しを奪い取る瞬間、素肌がぶつかって心臓が跳ねた。
半袖で布面積が減った分、今まで触れることのなかった素肌と擦れる瞬間が多く訪れるようになり、俺はそのたびに緊張してしまうのだった。
脳裏に過ぎった煩悩を掻き消すように黒板消しを動かしていると、傍らの金森さんが「よし」と頷いた。
「脱ぐか」
「は!? ちょっと待って!」
たまにアホが出るなとは薄々思っていたけど、この人本当にバカなんだなと確信した瞬間だった。
金森さんがベストを脱がなくて済むように代わったというのに、どうしてそうなるんだ。ベストなんて着ていたらシャツの下は通常よりも汗をかきやすくなるし、張り付いたシャツから肌が覗いたらどうするつもりなのだろう。
俺が敏感なのか、金森さんが鈍感なのか、この頃から彼女に振り回されることが増えていった。
いつも視界のどこかで見慣れた黒髪を探していて、服越しでも彼女に触れるとどきどきする。
こんな感覚はじめてでひどく混乱した。
都合のいい風よけとして利用しているだけだった金森さんの存在が、俺の中でむくむくと膨張して収まりきらないくらい脳裏を占めている。
これは一体どういう事象なのだろう。
その正体へと思い至ったのは、それから二か月後、早秋の九月に催された文化祭の前日。
文化祭実行委員に就任したことで、金森さんの隣には俺ではなく、兎堂くんが寄り添う機会が増えた。
俺と話している最中だって、金森さんは兎堂くんに一声呼びかけられれば吸い寄せられるように去っていってしまう。俺はそのたびに胃の辺りがちくちく痛くて、兎堂くんに対して言い知れぬ憎悪を抱くのだ。
そんな期間が続いて、やがて感情が爆発したのが、文化祭の前日。
兎堂くんを探しに校舎へと消えた金森さんの背中をひっそりと追った。
渡り廊下を抜けたところで呼びかけると、金森さんが青白い顔でゆったりと振り返る。
「どこ行くの?」
「……兎堂くんのところ」
金森さんの声音には僅かな煩わしさが覗いていた。
わかりきっていたのに、胃の中身が沸騰するような心地を覚える。
「ダメだよ、金森さん。俺っていう彼氏がいるのに」
「……は?」
「彼女なんだから。彼氏だけ見てないと」
「私はあんたのものじゃないわ」
「俺はもう金森さんのものなのに?」
唇から
俺の心は俺だけのものだと、ずっとそう思っていたのに、今、俺はなにを口走ったのだろう。
自分の心中すらも判然としないうちに金森さんが震える声で尋ねてくる。
「……ちゃんとあんたの気持ちに応えて付き合ってるじゃない。一体なにが不満なのよ」
晴れて恋人という地位を手にした今、柳先輩が接触してきたときのように、金森さんが俺以外の誰かに奪われる危険性はない。
それでも耐え難い不安に駆られてしまうのは、心は繋ぎ留めておくことなどできないということを知っているからだ。
金森さんの心が兎堂くんに奪われてしまうのが惜しい。
金森さんの心は金森さんのものなのに、俺のもとにあってほしいと思う。
金森さんの心を俺で占めてしまいたいと希う。
差し出した心が、報われたいと叫んでしまう。
「金森さんがいないと困る」
「……どうして」
不安定に揺れた声で問われて、胸の内にじくりと痛みが広がった。
顔の内側に火が灯ったみたいに熱い。
「好きだから」
自分で吐いた言葉が、熱が伝わるようにして全身を包んでいく。
幾重にも覆い隠していた心の柔い部分を、鈍い痛みが蝕んでいく。
俺はあの日クズに成り下がることで、他人の心の痛みに鈍感な自分を手に入れた。クズでいるうちは自分の心の痛みも感じずに済んで気が楽だった。
なのにどうして、今、こんなに痛い。
いつからだろう、俺の心を占めるのは彼女ばかりになってしまった。
俺ばかり焦がれていて、バカみたいと思う暇もないほどに夢中。
心は報いるものだと教えてくれた彼女は、同時に報われない恐ろしさも俺に教えたのだ。
なるほど、これが恋か。
差し出した分だけ報われたい。
曝け出したのと同じ分を曝け出してほしくなる。
見返りを求めてしまう身勝手さ、浅ましさ、弱さを、こんな風に包み隠さずに曝け出すのが、これほどまでに恐怖を伴うなんて。
彼女はこんなに恐ろしいものを俺に教えたくせに、自分だけは綺麗なまま、そのまっさらな心を晒してはくれないんだ。
彼女の中に踏み込みたい。
それがどれほど罪深いことか、俺は身をもって知っている。
だから、こんなに汚い心は隠さないとダメだ。
彼女を想うなら、彼女の心を尊重しないと。
そうして文化祭初日。
「金森さんの心の中に、俺の居場所をください」
淡く芽生えた願望を塗り潰して、内に潜む獰猛な俺を押し殺して、相応しい言葉を探して、ようやく辿り着いた答えを柔らかく舌に乗せると、彼女は花が綻ぶような微笑で頷いた。
俺は今、正しく金森深琴に恋をしている。
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