第19話 誠実になりたい①
これは文化祭が終わって、二学期中間テストが迫ったある放課後の話だ。
「あれ? 金森さんは?」
俺が教室に戻った頃には既にほとんどの生徒が部活に向かってしまい、二年一組の教室には数名しか残っていない。
その中でつい数分前まで談笑していたはずの金森さんと宇梶さんの姿は見えず、窓際の席にぽつんと結城くんが一人残されていた。
「職員室行ってるよ」
スマホから顔を上げた結城くんが首だけ振り返りながら教えてくれる。傍らには女子二人の荷物が置き去りにされていた。
よかった。ちゃんと戻ってくるみたい。
俺は少し迷って、結城くんの正面の席を引いた。
椅子に跨るような恰好で後ろ向きに腰を下ろすと、結城くんが珍しいものを見たような目で俺を見上げる。
「なに?」
「……いや」
なかなか踏ん切りがつかずに、用意していたはずの言葉を飲み込んだ。
ひと言告げればそれで済むのに、馬鹿にされたらどうしようとか、他の人にまで言いふらされたら怖いなとか、疑心暗鬼に取り憑かれて足が竦む。
相変わらず心を晒すのは恐ろしいままだ。
結局、場を茶化すように適当な言葉を投げてしまう。
「暇だから結城くんに構ってもらおうと思って」
「はは。嫌だよ」爽やかに笑い飛ばして言う。「オレは金森さんほど、相模に優しくないから」
浮かべた笑みは夏の日差しがよく似合う、一点の曇りもない爽快なものなのに、吐かれた言葉は乾いている。
……金森さんも宇梶さんも知らないけど、結城くんは時々俺にだけ冷たい。というか、扱いがぞんざいな時がある。
別に不満はない。むしろ、裏表のまったくない聖人君子みたいな人間よりも、多少ムラっ気がある方が人間らしくて好ましいとすら思う。
「宇梶さんの前でもそういう顔見せればいいのに」
「やだ」子供みたいに断じて、頬杖をついて上目遣いに俺を見遣った。「好きな子の前ではかっこつけてたいじゃん」
ちょいと首を傾げて俺の瞳を覗き込んでくる。
だから、そういう顔を宇梶さんにも見せたら、あの子も喜ぶんじゃない?
「相模にはわかんないか」
「む。なにそれ」
「相模は金森さんにだけはぜんぶ見せてるから」
予想外の指摘に、思わず一瞬鼻白む。
結城くんは柔らかい眼差しで、けれど逸らすことの許されないような熱を宿しながら、俺の反応をつぶさに観察してくる。
「そうやって拗ねてるとことか。焦ってるとことか、照れてるとことか……まあ色々。オレやひなちゃん、他の人といるときには少ししか見せないのに、金森さんがいるときだけはぜんぶ見せてる」
慈しむような温もりを宿した結城くんの眼差しとは対照的に、俺の心はすーっとその熱を失っていく。
違うよ結城くん。
金森さんにだけはすべてを曝け出しているなんてことはない。むしろその逆なんだ。
金森さんにだけは絶対に明かせない真実がある。
だからこそ、俺はこうして結城くんと向き合っているのだ。
「結城くん。俺に誠実のやり方を教えてほしい」
彼女を風よけとして利用するだけなら、誠実になる必要なんてない。
当初の予想通り、金森さんは俺に恋愛関係を迫ってくることも、その気配を漂わせることも一切なかった。むしろ俺が彼女と距離を詰めるよう努力しないと離れていってしまいそうで、いつだって必死なのは俺ばかり。
なんで俺こんなに必死になってるんだっけと我に返って虚しくなる瞬間も、実はあった。だけど実際、金森さんは風よけとしては都合がよかった。
間違っても俺の心に踏み込もうなんて真似はしない。
俺を拒絶したその唇で俺を引き留める矛盾。無関心を装いながらいつも俺を視界に捉えて、俺のことを知りたがる欲深さ。煩わしく思っているくせにけして見放さない甘さと情の深さ。
ぜんぶひっくるめて、都合がよくて、愚かで、愛らしい。
口よりも雄弁に物を語る眼差しに、益々こんな人を利用できる俺はラッキーだと思った。
そんな彼女の瞳が上辺だけでなく、幾重にも覆い隠した本当の俺さえも見透かそうとしていることに気づいたのは、球技大会の日。
気を抜くと手のひらをすり抜けてしまいそうになる彼女を引き留めようとして、派手に失敗した。
自ら選んだ底辺に堕ちたことで、いつの間にか人を愛する方法を見失っていたのだった。
いよいよ俺ももう戻れない場所まで辿り着いたものだと、心底己を憎んだ。同時に、これでもう誰からも踏み込まれる危険はないとひどく安心した。
そんな矛盾の狭間でせっかく手に入れた風よけを失わないよう伸ばした手を、金森さんは掴み上げてくれたのだ。
いつもそう。俺がなにかに足掻いて、届かなくて諦めようとしたその刹那、金森さんの手が予想外の方法で俺を掬い上げる。
「ごめんなさい相模。部外者は言い過ぎた」
体育館の入口で足を止めた俺に、慌てて追ってきた金森さんが静かに目を伏せたまま謝罪を口にする。
宇梶さんを見誤っていた俺が百パーセント悪いのに、どうして金森さんが先に頭を下げなきゃならないんだ。
俺は思わず頭を抱えた。
珍しく狼狽えた様子の金森さんが「さっ相模? 大丈夫」と背中を擦ってくれる感覚がくすぐったい。
母親にあやされる赤ん坊の気分になった。
彼女が謝罪した時点で、俺の仮面はとっくに崩れていたのだ。
「誰かを大切にするっていうのは、難しいね」
厳重に閉ざしていたはずの心の隙間から、ほんとうが
覆い隠していたはずの本音が、誰にも踏み荒らされないよう守っていた弱い俺が、ほんの一瞬だけその顔を覗かせる。
傍らの金森さんが幽かに息を呑む。
たちまち恐ろしくなった。
無防備な部分を土足で踏み荒らされる恐怖に、背筋を冷たいものが伝う。
「……うん」
けれど金森さんは静かに首肯しただけだった。
「だからみんな、少しずつ積み重ねていくんだと思う。相模もこれから積み重ねていけばいいのよ」
もう取り返しがつかないと思っていたのに。
俺の絶望を金森深琴はあっさりと打ち砕く。
「……遅くないかな」
「遅くないわよ。一緒に積み上げていこう、私と。だから私、相模のこと信じるわ」
金森さんの声が慈雨のように俺の全身をぬるく包んでいく。
一瞬にして身の内から湧き出た強い感情に、目の奥がつんと熱くなった。
どうしてこの人はいつも、俺のほしいものがわかってしまうのだろう。
幾重にも嘘で塗り固めて、誰にも届かないようしまい込んだ本当の俺を、その瞳に映してしまうのだろう。
もう二度と傷つかないよう、僅かな隙間すら残さないよう閉ざしていた心が、無自覚のうちにゆっくりと開いていった。
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