第18話 反転④

 なのに、金森さんは俺を諦めない。


 もういい加減にしてくれ。教室の中心で声を掛けられて、心底うんざりしながらもそれをおくびにも出さず、口の中だけで呟いた。


 隣の教室に連れ込まれる際、教室中から沸き起こるどよめきで空気が低く振動する。

 一瞬にして蘇るのは、俺の心に消えない傷を刻んだあのときの光景。口の中に酸っぱい味が広がった。


 後ろ手にドアを閉めて、廊下に潜むクラスメイトの気配を警戒しつつ金森さんへ言葉を促す。


「相模。昨日はひどいこと言ってごめんなさい」


 ……は?

 折り目正しく謝罪を述べた金森さんのつむじを見下ろす。蓋をした記憶の底で俺にプリントを回した瞬間の彼女の横顔が蘇る。


 ……思った通り、金森深琴は厄介な女だった。


 いい加減優しい相模真成を装うのも億劫だ。だからぞんざいに遠ざけようとあしらってみせても、一層俺への執着を強めてしまう。

 握り潰して捨てたはずの手紙を差し出して「これを読んで、ちゃんとこの人の気持ちに答えて」なんて迫ってくる始末だ。


 なんであんたにそんなこと言われなきゃならないんだ。

 つい昨日事情を知ったばかりで、しかも俺に手酷く傷つけられた直後で、なぜこんな図々しく俺に迫ることができるのか。心底不思議だった。


 訝しむ俺と返答に窮する金森さんの均衡を破ったのは、乱暴にドアを開け放って入室してきた教師の野太い叫び声だった。


「相模ッ!」


 真っ青な顔をしているくせに、額には青筋が浮かんでいる。徹夜でもしたみたいに血走った目で俺を真っ直ぐに睨みつけてくる。

 嫌な予感がした。

 Yシャツの首元を掴まれて、引きずられるようにして連れ込まれたのは、管理棟一階の応接室。


 俺を無理やりソファーに座らせて、待ち構えていた学年主任はやけに張りつめた声で尋ねた。


「相模。一年に交際している女子はいるか?」

「……は? い、や……いませんけど」


 仮に俺が一年女子と交際していたとして、それを教師に咎められる道理はない。

 今時の学校って、生徒同士の恋愛にまで口出しするほど暇なの? 校則に不純異性交遊の禁止でも含まれているのだろうか。

 生憎、生徒手帳に目を通したことがないのでさっぱり心当たりが見つからない。


 断固として否定してみせたことで、会話はそこで打ち切られる目算だった。

 そんな俺の楽観的な読みに×バツを突きつけるように、学年主任は重くため息を吐く。

 そうして怒りとか、呆れとか、やるせなさとか、色んなものがないまぜになった瞳で、俺に宣告した。



 一年女子が、俺の子供を孕んだらしい。



 頭が真っ白になった。







 詳細な聴取は放課後改めて行われる運びとなり、俺はひとまず解放された。

 心底面倒で仕方ない。だけど、ここで逃げ出しても何一つメリットがないことくらい理解している。嫌々荷物をまとめて応接室に赴くべく、席を立ちあがった瞬間だった。


「相模。さっきの続きをしようじゃないの」


 金森さんだった。

 尊大に腕を組んで、俺よりずっと小柄なくせに無駄に大きな態度で宣戦布告してくる。

 嘘でしょ、この状況でも俺に構うの?


 正気じゃない。本気で引いてしまう。


「あーもう。こっちはそれどころじゃないんだよ」

「もしかして昼間の?」

「……こっち来て」


 なにかを察したらしい金森さんの手を引いて、隣の教室へと逃げ込んだ。

 今度こそ盗み聞きされないよう厳重に鍵をかけて、手近にあった適当な椅子を引く。どっと押し寄せる疲労に耐え切れず、頬杖をついて胸に詰まった空気を吐き出した。


「……昼間の、そんなにヤバい話だったの?」

「妊娠したんだってさ」

「誰が」

「一年の女子が、俺の子供を」

「は!?」

「声が大きい!」


 驚愕に声をひっくり返らせた金森さんの口を手のひらで塞ぐ。

 目だけで反省を訴える彼女を解放すると「それは……えっと、ガチなの?」と躊躇いがちに問われた。

 なんだ、意外と気を遣った聞き方もできるじゃん。

 内心で小馬鹿にしながら、彼女の問いかけをはっと鼻で笑い飛ばす。


 真実なわけあるか。

 人生でいわゆる彼女という存在を作ったことなど、一度たりともない。

 中学の一件だって、交際の事実など俺は未だに認めていないのだ。


 けれど、真実ではないにせよ、それはもう揺るぎない事実になってしまっていた。

 俺の意思とは無関係に、世間は俺とあの子を元恋人としてひとまとめに扱ってくる。それはもう俺には手の届かない、さながら神様が定めた運命のように、俺の世界に刻まれてしまっている。ひっくり返って、二度と戻らない。


 今の状況と同じ。


 俺がなにを叫んでも、教師たちは俺の主張など受け入れないだろう。そうしてやがて全校生徒に広まり、俺はまた、俺の知らない相模真成に世界を乗っ取られる。


 眩暈がする。体の内側で胃液が沸騰している。昼食を食べ損ねたから、吐き出せるものなんてなにもないのに。


「ああ、もういいや」


 抗えば抗うほどに痛みを伴う。身に纏った棘が深く肌に突き刺さって、内側まで蹂躙してくる。俺を守るための『クズの相模真成』がぼろぼろに剝がされていく。

 そんなのは耐えられない。


 もしあのときと同じような傷を負ってしまえば、今度こそ本当に、俺は朽ちてしまうだろう。

 だから仕方ないと、これも俺自身を守るためなのだと、金森さんに覚悟を問われながら自分自身に何度も言い聞かせた。

 腹の底に蟠った暗澹たる気持ちに呑まれてしまえば、このまま楽になれる。


「そう。わかった」


 やがて金森さんが吐息交じりにそっと呟く。

 瞑目して、一つ息を吐き出した。看取るような響き。終わったと思った。

 なのに彼女は。

 金森深琴は。


「なら私が証明してやるわよ」


 閉ざしたはずの瞼を持ち上げて、鋭い眼光で俺を真っ直ぐに射抜く。

 背後の窓から差し込むぬるい陽光が、後光が差すように凶暴に彼女の輪郭を浮かび上がらせる。俺には手が届かない絶対の運命を突きつけるように、本物の神様のように、一切揺るぎのない瞳で俺に突きつける。



 そうして彼女は本当に証明してしまった。



 乱暴に手を引かれて管理棟一階まで辿り着く。応接室の目の前を通り過ぎて、ようやく足を止めたのは職員室前の女子トイレ。


 LINEのQRコードを呈示されて、あれよあれよという間に友達登録が完了してしまう。高校入学後に連絡先を交換した相手なんてごく僅かなのに。


 金森さんは、今までに経験したことのないような粗暴さと鮮やかな手腕で、いともたやすく俺のアカウントを入手してしまった。


「ん、おっけ。じゃあこっちスピーカーにしとくから、あんたはイヤホンつけて聞いてなさいよ」


 言うが早いが通話がかかってくる。反射的に応答をタップしてしまったが、俺は今から何をさせられるのだろう。


「あ、もしかしてイヤホン持ってない?」

「いや、持ってる……けど、これ今からなにすんの? 俺どうすればいいの?」

「あんたはなにもしなくていい。さっさとイヤホンぶちこんで、ここで大人しく聞いてろ」そう言って金森さんは自身のスマホをブレザーの胸ポケットに落とした。「やるのは私よ」


 ふっと力強い笑みを残して、女子トイレのドアノブに手を掛ける。俺は慌てて接続したイヤホンを耳に捩じ込んだ。

 ドアの隙間から冷たい風が溢れ出して、金森さんの黒髪が大きく揺れる。

 前を向いた横顔が美しい。思わず見惚れているうちに、彼女の背中は女子トイレの中へと消えていった。


 近くの壁に背を預けて、鼓膜に全神経を集中させる。

 ざざ……細かいノイズが走る。鼓膜を撫でるざらざらした雑音の隙間で、誰かが嘔吐く気配がした。耳を澄ますと幽かな水音のようなものも届く。


『お昼、食べ損ねたんでしょ?』


 金森さんの声だった。

 独り言じゃない。中に少なくとももう一人はいる。やや間を置いて、金森さんは自身の過去を語り出した。


『クラスにダイエット中の女の子がいたんだけど、ある時その子が給食中に教室を出て行って』


 金森さんが滔々と語る、想像上の光景と、胸の深い部分に沈み込んだ遠い記憶が重なる。

 教室中の視線に耐えられなくてトイレに駆け込んだあの日。


『その子、トイレで吐いてたんだ。病気じゃなくて、自分で口の中に手を突っ込んで、食べたばかりの給食を』


 細かく咀嚼された給食が、見るも無残に便器の中に落とされていく。胃液と混ざってぐちゃぐちゃになった、思い出すだけで口の中が酸っぱくなるような、最悪の光景。


 絡まった心の糸を解きほぐすように静かで、ぬるい温度に満ちた声音で、金森さんは誰の手も届かない場所にあったはずの真実を暴いていく。


 一年女子は妊娠なんてしていなかったこと。

 俺が記憶に留めなかっただけで、その子と俺には面識があったこと。

 摂食障害を患った少女が食事を戻しているところを教師に見つかり、つい、原因である俺の名が零れてしまったこと。


 すべてが陽の下に晒されて、青天白日の身となる。

 一つ解かれるたびに、体が数グラムずつ軽くなっていくような心地がした。


『ごめんなさい……ごめんなさい……!』

『大丈夫』


 涙に濡れた少女の懺悔を、金森さんの優しく溶け込むような声が包み込む。


『まだ間に合う。私と一緒に行こう。絶対に離さないから』


 金森さんの宣告を聞き届けて、俺はイヤホンを外す。

 気づけば唇の端から笑みが零れていた。


 軽くなった足ですぐ傍の応接室へと向かう。

 固く閉ざされたドアに手を掛けながら、そういえば教室に荷物を置き忘れていたことを思い出した。


 ……まあいっか。どうせ取りに戻れるし。


 数分後、金森さんが一年女子を伴って応接室へとやって来た。

 無関係のくせにやけに堂々と立ちはだかる彼女に、同席していた担任の教師が腰を軽く持ち上げたその瞬間。


「相模はこの子と付き合っていません。ていうか、相模に彼女なんていません」


 金森さんの声が高らかに木霊する。


「だってこいつ、クズなので!」




 金森深琴は、中学のあの日反転して、今日までそのままだった俺の世界を、暴力的なまでに鮮やかにひっくり返してみせたのだった。



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