第18話 反転③

 俺が金森深琴という女をはじめて認識したのは、高校一年、生ぬるい風が青々と色づく枝葉を揺らす、初夏のある日だった。



 自宅から離れた場所に位置する高校に入学して、俺はひとまずの平穏を得た。


 結局部活は引退まで続けたけど、当時の仲間とは一切連絡を取り合っていない。それどころか中学の知り合いは全員ブロックした。

 SNSでそれまで使っていたアカウントも消去して、新たに鍵をつけた非公開のアカウントを作り直した。


 さらに念には念を入れて、駅や車内で同級生と遭遇するリスクを回避するべく、通学手段は自転車を選択した。やや面倒ではあったが、精神衛生上やむを得ない。


 環境が一新されたことでそれまで抱えていたストレスから解放された一方で、新たな面倒ごとにも巻き込まれるようになった。

 入学直後から俺の容姿に目をつけた女子生徒たちが、教室まで俺の様子を窺いに訪れるのだ。


 開け放たれた廊下側の窓の向こうに、明らかに上級生らしき面識のない女子生徒の顔が並ぶ。なんだか動物園のパンダにでもなったみたいだ。


 ほとんど毎日のように見知らぬ女子生徒に馴れ馴れしく呼び止められ、SNSの交換を求められる。いつしか放課後に呼び出されて交際を申し込まれるようにもなる。それが一か月ほど続いた果てに、ついに精神が摩耗した。俺は寄ってくる女子たちをすげなくあしらうようになっていた。


 教室ではにこやかな微笑で受け流し、呼び出され二人きりになったところで現実を教える。

 そんなことを繰り返しているうちに告白ラッシュも落ち着いた。


 そうして高校一年の夏休み直前、一年の全クラス合同で行われる進路関係行事のため、各クラスのRルーム長・副Rルーム長が駆り出されることとなった。

 俺は入学直後にクラス中から担がれ副R長を任命されていたおかげで、嫌々その集会に顔を出した。そうして会議室の端で適当に座った席の前にいたのが、金森深琴。


 列の先頭から回ってきたプリントが回ってくる。

 金森さんは振り向かないまま無言で差し出された束を「ありがとう」と受け取り、半身で振り返って残りを俺に手渡した。


「お願いします」


 同い年だというのにやけに丁寧な文句をつけて、折り目正しく接してきた彼女を、俺はひと目で苦手だと思った。


 肩の上で切り揃えられた、艶やかな黒髪。揺るがない意思の強さを秘めた涼し気な瞳。たった一言の些細なセリフですらよく通る、凛と張った声。俺を視界に映してもぴくりとも緩まない、形のいい唇。


 全部が彼女の性質をそのまま映しているようで、なにもかも気に食わなかった。

 自分の中でこうと決めたことは一切揺るがない、周囲の言葉なんて受け入れないような、頑固で厄介な女の匂い。

 きっとこの人も、例の女の子と同じなのだろう。


 集会は夏休み突入まで数度に渡って催されたが、俺はそのすべてで金森さんを避け続けた。


 彼女との交わりを持たないまま高校一年が終わって、やがて進級し二年一組の一員となったあの日、再び金森深琴は俺の前に姿を現したのだった。


「……げ」


 廊下の奥にその横顔を見つけて、思わず苦々しい声が漏れた。

 どうするべきか迷っているうちに彼女はロッカーの上に積まれていたノートを抱えて、スカートを翻してしまう。


「待って!」


 半ばやけくそになりながら廊下を駆ける。

 なるべく関わらないように、一瞬だけだ──自分に言い聞かせてロッカーを覗き込んだ。現代文のノートを取り出して、彼女の前に差し出す。


「ごめんね遅れちゃって」

「いいわよ別に。上に置いてくれる?」


 彼女の細腕には約四十冊のノートの束が積まれている。

 重たそうだ、先生の小間使いなんて可哀そうに……頭の片隅に過ぎらせて自分のノートを載せる。ふと、俺を見上げた彼女と視線がぶつかった。

 一年前に間近で見つめたものと変わらない、凪いだ眼差し。


 苦手意識が溢れないよう、高校に入学してから癖になった微笑を浮かべてみせた。我ながら完璧に作りこまれていたと思う。


 なのに彼女は、へらっと引き攣った下手くそな笑みを返して、ほとんど逃げるみたいに俺の前を立ち去ってしまう。

 ……失礼な人だ。

 胃の底にちくりと痛みが走った。


 金森さんの態度にいちいち腹を立てたって仕方ない。どうせ俺たちの交わりはここで途絶えるのだから──そう思っていたのに、彼女は再び俺を呼び止めた。


 自分の用も終えたし、いい加減下校しようと下駄箱を訪れたちょうどその瞬間だった。


「相模! ……くん」


 ぎこちなく呼ばれて振り返ると、渡り廊下の中腹で切り揃えられた黒髪が揺れている。

 金森さんだ。

 彼女の手には見覚えのある小さな手紙が掲げられていた。


 目の前に差し出されたそれを見下ろして、俺はしばし記憶の糸を手繰る。

 これは確か、今朝登校直後に机の中から見つけたものだ。

 最近はこういうのも落ち着いてきたからすっかり油断していたのに。うんざりして適当なノートに挟んだまま放置していたはず。あれは現代文のノートだったのか。


 よく見つけたな……密かに感心しながら「ああ、これね。ありがとう」と恒例の笑みを差し出す。

 金森さんが踵を返して、華奢な背中が遠ざかっていく。俺はため息とともに傍らのごみ箱へと手を伸ばした。手紙を放り捨てるために。

 直後、短くも激しい足音とともに、乱暴に手首を掴み上げられた。


「なにしてるの」


 俺を咎める金森さんの声は震えている。

 なんだ、意外と人間らしい顔もできるじゃん。動揺よりも感心が勝って、俺は彼女の詰問を飄々と受け流すことができた。


 それからのことは、実はあんまり覚えていない。

 とにかくまともに相手をするのも煩わしい。いつも俺に想いを告げる女の子たちにそうしてきたように、ぞんざいにあしらおうとした時だった。


 金森さんがステップでも踏むみたいに、軽やかに俺の地雷を踏み抜く。


 一瞬で脳裏が真っ赤に染まった。

 それから胸に溢れた呪詛を手当たり次第に吐き散らして、最後に見せつけるように手紙を握りつぶした。


 昇降口を出て、彼女が後を追ってくる気配がなくて、ひどく安心した。


 よかった。

 俺は今度こそ、きちんと俺の心を守ることができた。

 弱い部分に踏み込まれずに済んだ。


 たったそれだけのことが、指先が震えるほどの安堵を俺にもたらした。



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