第18話 反転②

 そんな疑問は練習に打ち込んでいるうちに頭の片隅へと追いやられてしまった。その日の活動を終えて、汗を含んで重くなった練習着を脱ぎ捨てる。ふと、彼女を待たせていることを思い出した。


「あっ!」

「ん、どした」

「約束してたんだった……」


 隣で着替えていた友人に「誰と」と問われて、例の女の子の名前を挙げる。

 その瞬間、彼の目つきがさっと変わった。


「へえ……」


 いやらしく唇を歪めて、ぎゅっと細めた瞼の隙間から俺を映す眼差しは蛇みたいだ。

 思い返せば、それすらもこの後起こる出来事の予兆であった。だけど俺は気づかない。


「ごめん俺もう行くから、先帰ってて」


 大慌てで荷物を抱えて部室を飛び出す。

 扉の向こうで、誰かがわざとらしい指笛を吹いていた。







 既に陽は沈んだ。まだ汗の滲んだ首筋を夜風が撫でると、体が芯から凍っていくようだ。


 プールの裏手には照明が届かない。一寸先も見渡せないような闇ばかりが支配している。

 目を細めて慎重に足元を探りながら、砂利を踏みしめて進んだ。


「相模くん」


 声のした方に首を巡らせる。

 フェンスに寄りかかるようにして、彼女が俺を待ち構えていた。闇の中に顔がぼんやりと浮かび上がる様が不気味だ。


 幽霊に呼び止められたみたい。

 そんな思考が拭えないほど、少女の声は重く沈んだものだった。

 じゃり、じゃり……一歩一歩砂を鳴らしなが歩み寄ってくる様すら恐ろしい。

 俺の目の前で立ち止まった少女は、いたく真剣な顔つきをしていた。


「遅くなってごめん。それで」

「……うん」


 吐息の隙間から漏れたようにか細い声。平静ではないと感じた。

 何度も砂の上で視線を彷徨わせて、彼女は躊躇いがちにその言葉を発した。


「別れよう」


 短く告げられた声が、鼓膜をすり抜けて右から左へと流れていく。

 言葉の意味が理解できなかった。


「え……?」

「だから、あたしたちもう別れようって言ってるの」


 俺は言葉の意味を問うたつもりだった。だけど彼女は単に俺が聞き逃したのだと解釈したようだ。

 俺の真意をはき違えた彼女が、どこか苛立ったような調子で声を上げる。


「あたしたちもう無理だよ、終わりにしよう」

「えっと、なんで……」相変わらず彼女が何の話をしているのか理解が追い付かない。一から説明してほしくて、戸惑いがちに首を捻った。「どういうこと?」

「だって、相模くん全然あたしに触ってくれないんだもんっ!」


 少女の目から透明な雫が溢れた。

 どうしてここで涙を流すのかわからなくて、益々混乱してしまう。


「いつもあたしばっかりじゃんっ。触るのも、好きなのもあたしだけで、相模くんなんにもしてくれなかった! 付き合ってるのに!」


 雨のような涕涙を手の甲で拭いながら、少女は俺に吠えた。

 甲高い喚き声が頭蓋骨に反響して、脳味噌を揺らしていく。


 眩暈がする。

 この人はなにを言ってるんだ?


 彼女が吐き散らした言葉の意味を俺が正しく理解するのは、翌日のことだった。







 ……教室中から注がれる視線が痛い。


 朝練を終えて教室に駆け込むと同時に、数人のクラスメイトが一斉に俺を見遣った。全員女子。それも、いつも例の女の子の周囲に侍っている、お馴染みの顔ぶれ。

 そのどれもが一様に眉をひそめ、蔑むように鋭い色を宿して俺を睨んでいる。


 身の入らない授業をやり過ごす。時計の秒針がひとつふたつと進むにつれて、俺を包む違和感はその濃度を増していく。


 授業中でさえ、誰かが控えめに囁き合う音が耳に届いた。自意識過剰だろうと自らに言い聞かせても、背中に突き刺さる無数の視線が、俺の胸を搔き乱す。


 そうしてとうとう給食の時間になって、俺は自身を取り巻く状況を正しく呑み込むのだった。

 机をくっつけて、定められたグループごとに食事を摂る。

 俺の所属するグループに会話はなかった。ただ居心地の悪い沈黙と探り合うような視線だけが、机の上で交錯している。


 その声は突然響いた。


「ちょっと、大丈夫?」


 教室の一角が揺れる。

 振り返ると、例の女の子が箸を握ったままの手で目元を何度も擦っていた。

 泣いている。

 遠目でだってはっきりとわかる。


「ごめ……」

「いいよ、つらいのわかってるから」

「好きだったんだもんね。相模くんのこと」


 一瞬にしてひやりと心臓の温度が数度下がる。

 箸を持つ手が幽かに震えている。


 俺の緊張を余所に、少女がついに箸を置いて顔を覆った。隣の女子生徒がその肩を支えて優しく寄り添う。

 女子同士の麗しい友情の光景。

 なのに俺は震えていた。体の芯は凍えてしまいそうに冷たいのに、心臓の鼓動は激しさを増す。どくどくと血流が激しい勢いで全身を巡っていく。


 教室の隅で表出した喧噪が、徐々にその波を広げて、俺の元まで伝染してくる。


「別れたんだって、相模と」「ええ、あんなに仲よかったのに?」「相模が意気地なしだから」「なにそれ」


 鼓膜の奥で昨夜彼女にぶつけられた言葉が鮮明に蘇る。それすらも掻き消すように、教室中から沸き起こる無数の声が俺の脳味噌を凄まじい速度でいっぱいに満たしていく。



 思わせぶりな態度を取って、彼女の気を引いた。

 本気にさせて弄んだ。

 いつも彼女にばかり気を遣わせて、自分からはなにもしなかった。

 男のくせに、女ばかりに任せた。

 弱気で女に手を出すこともできない。

 顔がいいから、なにもしなくたって人に愛されると思っている。

 驕っている。調子に乗っている。

 そうしてすべて失った。彼女に振られた。

 みっともなくて、憐れな奴。

 相模さがみ真成まさなりは、傲慢で、ダサくて、可哀想な奴だ。



 弾かれたように立ち上がって教室を飛び出す。

 もつれる足を引きずって男子トイレに駆け込み、個室に雪崩れ込む。


 そうしてつい数分前に胃に詰めた内容物を、便器の中に一滴残らずぶちまけた。


 知らない。俺はなにも知らないのに。


 知らないうちに、俺は彼女と付き合っていることになっていた。

 傲慢さ故に彼女に捨てられた情けない男になっていた。


 俺の知らない、もう一人の相模真成が、俺の世界を丸ごと乗っ取ったみたいだ。

 朝と夜が入れ替わるみたいに世界がぐるんと反転して、俺は俺の世界から弾き出された。そこには俺の知らない相模真成がいて、そいつは可哀想な奴だった。

 憐れみ、嘲笑、奇異の視線……脳震盪を起こしたみたいに視界が揺らぐ。


 小学校から野球に打ち込んできた経験から、精神面の強さには一定の自信があった。

 幼少期から積み重ねたそんな自負すらも、彼女のたった一言は、一瞬ですべて打ち砕いてみせたのだ。


 何度も何度も嘔吐く。胃の中が空っぽになると、今度は燃えるように熱い涙が溢れた。


 真実を叫んでも、俺の声に耳を傾ける者など存在しない。

 彼女の方が俺よりも影響力が大きい人だからだ。俺の声じゃ、彼女の嗚咽にすら負けてしまう。

 勝手に切り取られた相模真成という人物が、またぺたぺたとコラージュをされて、俺の手の届かない場所で出来上がっていく。

 胸を掻き毟りたくなるような深い絶望が全身に満ちていく。



 俺の声が、言葉が、本当の俺の姿が、誰にも届かないことを悟って、俺は静かに心を閉ざした。


 誰も俺を認めてくれないのなら、せめて俺だけは、俺のことを大切にしてあげよう。もうなにも誰も顧みない。

 憐れまれないよう、可哀想に見えないように。


 ひっそりと心に定めてからは、少しだけ呼吸が楽になった。

 自分しか愛せない、他者を軽んじるクズの仮面を纏っている間は、本当の俺を守ることができる。


 自分が底辺へと堕ちていく最悪な実感と同時に、誰からも踏み込まれない心の安寧を手に入れた。



 あの日を境に世界がぐるんと反転して、今日までひっくり返ったままの日々が続いている。


 もう、胃の中は空っぽで、ひっくり返しても一滴すら零れなかった。



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