第17話 もう戻れない⑥
図書室を出たその足で、そのまま部室へと戻る。
ドアの前に立って、硝子から一瞬中の様子を窺う。
部室の中には二人分の影しか見えない。赤髪と茶髪。
ほっと胸を撫でおろして、ドアに手を掛けた。
「おつかれ」
なんでもないようなふりをして、声を掛けながら入室する。パイプ椅子に深く腰掛けていたひなが弾かれたように顔を上げた。
「聖山くんは?」
「今日は帰るって。それと……」
狼狽えるばかりのひなに代わって、一番奥の席から結城くんが答えてくれる。歪に遮られた言葉の先は容易に想像できた。ただ静かに首肯をもって、結城くんを制する。
「み、深琴ちゃん」
おもむろに立ち上がったひなが、胸の前で拳をきつく握りしめながらこちらへ歩み寄ってくる。唇を真一文字に引き結んで、緊張に肩を震わせていた。
「あ、あのね、」
「大丈夫よ」
ひながその先を紡ぐよりも早く、強く握りすぎて白くなった拳に手を添える。
保健室で聖山くんにそうしたときのように、握りこまれた指を一本ずつ丁寧に解いて、彼女の白くしなやかな手を下から掬い上げるように包み込んだ。
「ひなに頼みたいことがあるの」
丸い瞳を正面から覗き込んでそっと柔らかく告げると、ひなは短く息を呑んだ。
白い喉が細かく震える。桜色の艶っぽい唇が酸素を求めるように薄く開閉を繰り返す。
「この間、ひなと一緒がいいって言ったばかりで申し訳ないんだけど……今、相模が一人になってるのは知ってるでしょう? 私は相模と一緒にはいてあげられないから、ひなに相模のことを頼みたいの」
チョコレート色の瞳が驚愕に揺らいだ。
「それ……、」唇を何度も震わせて、私の瞳を上目遣いに覗き込む。「深琴ちゃん、ひなはね、深琴ちゃんも相模くんも大切なの。二人に幸せになってほしい」
「うん。任せて」
言葉を探しながら縋るように私を見上げた彼女の手を強く握りこむ。
大丈夫。きっと彼女が危惧しているような結末にはならない。
「ちゃんと最後は相模に届いてみせるから、安心して。……お願いひな。今の私にはできないことなの。私の大切なひなだから、大切な相模のことを頼みたい」
手のひらに満ちる温度のおかげで、もう躊躇うことはなかった。
「私のこと、助けてほしい」
ひなの体が震える。
きつく閉じられた瞼の隙間から、大粒の雫が溢れた。ひなが倒れ込むように私の胸に顔を埋める。痙攣を繰り返す背中をそっと抱き寄せて、彼女の温もりを受け止めた。
ずいぶん長い間待たせてしまってごめんなさい。
謝りたい相手はもう一人いた。
未だ滂沱たる涙を溢れさせながら呼吸を引き攣らせるひなからそっと体を放す。ひなは私の肩に額を擦り付けて腕を絡めた。私も彼女の嗚咽を受け入れながら、もう一人の人物に向き直る。
結城くんは窓際でパイプ椅子に腰かけたまま、じっと私を見つめていた。
その瞳には一切揺らぎのない信頼だけが浮かんでいる。彼のことは、少し待たせすぎたかもしれない。
聖山くんと並んで、私を傍で静かに見守っていてくれた人。
私には見えないところで、いつも私を想って奔走してくれていた人。
互いに強く信頼しきっている私たちの間に、もう憚るものなど存在しなかった。
「結城くん。お願いがあるの」
「それ、オレにできること?」
「もちろん」ほんの僅かな瞬間だけ思考を巡らせる。「……もしかしたら、結城くん以外の人でもできるかも。だけど、結城くんに頼みたいこと」
確固とした意思をもって告げると、ややあって、結城くんはふっと柔らかく目を細めた。口元を綻ばせて、晴れやかな笑みを浮かべる。
「嬉しい。中学の頃から夢だったんだ。金森さんの役に立つの」
本当に、お待たせしすぎて申し訳ない。
さて、これで必要な役者はすべて揃った。
孤高にそびえる私は、今日でおしまいにしよう。
聖山くんがきっかけをくれた。
夕姫ちゃんが気づきを与えてくれた。
ひなが助けてくれた。
結城くんが受け入れてくれた。
そうしてそのすべての先に、彼がいる。
飾らない、泥に塗れた、ありのままの私で、それでも美しいと思ってもらえるように。
どうせもう戻れないのなら、なりふり構わない。
相模に辿り着くためならなんだってしてやる。
この拳が彼に届くまで、せいぜい藻掻いてやるわ。なんせ、この私を手酷く傷つけたのだ。
タダで済むと思うなよ。
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