第17話 もう戻れない⑤

 保健室を出たその足で三階まで一気に上がる。

 目的となる部屋の前で一度足を止め、深く息を吸い込んだ。


 ここから新しい私が始まる。


 唾を飲み下し、図書室のドアを豪快に開け放つ。

 迷うことなく中へ進んで、窓際の席で楚々とした面差しを見つけた。


「来たわよ、鹿島さん」


 カウンターから少し離れた位置にある窓際の席。鹿島さんは硝子の奥に広がる晩秋の夕陽を背負いながら、広げていた問題集から顔を上げた。


「いらっしゃい」


 シャーペンを問題集の脇に置いて、ちょこんと膝の上に手を乗せて私を待ち受ける。


「なにか進展があったのかしら」

「え?」

「相模くんのこと。今朝とは顔つきが違うので」


 淡々と指摘されて、思わず苦笑が零れた。

 本当に、この人には敵わないな。


 鹿島さんの目の前の椅子を引く。

 向かい合うように座って、彼女の真似をして膝に手を添えた。

 いよいよ口を切ろうとしたところで、鹿島さんの言葉に遮られる。


「協力するわ」


 まだなにも口にしていないのに、鹿島さんはわかりきっているとでも言うように未来の私の依頼を承諾してしまう。

 このままとんとん拍子に事を進めるのは、鹿島さんに対して不誠実な気がする。

 一度区切りをつけるために、私は長い間胸につかえていた問いを投げかけた。


「ずっと不思議だったの」

「なにが」

「どうして鹿島さんは、こんなに私に優しくしてくれるのか」


 静かに問うと、鹿島さんはきょとんと首を捻った。


「優しくしているつもりはないけれど」

「だけど、いつも私に協力してくれるじゃない。私はなにもあげられてないのに」

「そうね……」


 唇に指を添えて、そっと目を伏せる。


「はじめは、巻き込まれたから」


 それは二学期中間テストの直後、相模が接近してきたときのことを指すのだろう。


「だけど今は、お友達だと思っているから」

「おと、も……」

「あら。わたしはとっくにお友達のつもりよ」


 思いがけない回答に二の句の継げない私に、鹿島さんはやはり淡々と、けれどどこか温もりの満ちた声で語る。


「なにももらっていなくたって、協力したっていいじゃない。なにか一つの大きなきっかけなんて必要ないのよ。毎日少しずつ、代わり映えしない日々の中で、必要な時に必要な分だけ分け合って、与え合って、そうやって積み重ねたものを、少しずつ報いていくの」


 滔々と語られた言葉の数々が頭蓋骨の内側で何度も反響している。

 ややあって、私は背もたれに体重を預けて深く息を吐き出した。はじめはため息にも似ていたそれは、やがて喉の奥で短く詰まって、くつくつと歪な笑みに変わる。


「ほんっとう、敵わないなあ」


 今度こそ声に出して認めてしまえば、きょとんと目を丸めた鹿島さんが、途端に可愛らしく思えてくる。


 はじめこそ学年主席という大層な肩書と、ぴくりとも揺らがないお人形のような面差しに呑まれ、畏怖の交じった目でしか彼女を捉えることができなかった。

 しかし、今はその完全に死にきった表情筋も彼女の魅力だと理解しているし、学年主席の肩書だって、たゆまぬ努力が掴んだ成果であることを知っている。


 隣で見て、言葉を交わして、咀嚼して、受け入れた。

 私にとっては彼も同じだ。


 眦に滲んだ涙を指で拭って、微笑み交じりに鹿島さんの瞳を覗いた。


「私、鹿島さんのこと結構好きよ」

「そう、なら夕姫ゆきちゃんと呼んでちょうだい」


 わたしも深琴ちゃんと呼ぶわ。静かな眼差しの奥で、ちらりと子どもみたいに無垢な喜色を輝かせる。端的に付け加えられたひと言が幽かに弾んでいるのだって、昨日までの私なら気づかなかっただろう。

 一歩踏み出すのにあまりにも長い時間がかかってしまった。


「もっと早くこうすればよかった」


 正面に座る鹿島さん──夕姫ちゃんから視線を外して、彼女の背後に広がる夕景に目を細めた。瞳を焼くように眩い朱色に、視界が霞む。


「自分がそんなに強い人間じゃないってこと、本当はわかってたの」


 湊に誇れる姉であるために、憐れまれない強い人間になるために、私の内側で定めた理想の私が存在していた。

 そうして今日に至るまでその影に縛られて、気づいた時には本当に大切なものは手のひらから零れ落ちた後だった。


「必死で強くあろうとして……うまくできないのに周りを騙してるみたいでずっと心苦しかった。私みんなが思ってるような人間じゃないのよってひと言言えたら、どれほど楽になるんだろうって。だけどそれってとても怖いことでしょう?」


 夕姫ちゃんが静かに首肯してくれる。


「それで今日までずるずる来て……相模のことも、失望させたのよ。私のこと、綺麗って言ってくれたのに」

「脆いものほど美しく見えるのよ」


 硝子から視線を戻す。

 夕姫ちゃんは差し込む夕陽を背負い、凛と背筋を伸ばして真っ直ぐに私を見つめていた。


「散り際の桜のように、手のひらに落ちる雪のように、触れれば割れる硝子のように。失望なんてしないわ。強くあろうとするその姿こそが美しいのだもの」


 滔々と歌うように語って、最後にほんの少しだけ悪戯っぽく微笑を浮かべた。柔らかく細めた瞳にはレンズを通しても曇らない確かな温度が宿っている。


「心配なら本人に聞いてみることね。大丈夫。わたし、人を見る目には自信あるので」


 ほう、とため息にも似た吐息が漏れる。


 うん。きっとそうするわ。


 学年首席の聡明な頭脳をこんなことに使うなんて役不足も甚だしいと頭痛がするほど理解していた。だけど、私がはじめて、こんな風に頼りたいと思えるのは彼女だけだった。

 一度唾を飲み下して、遂にその言葉をなぞる。


「夕姫ちゃん。頼ってもいい?」


 か細く囁いた私に、夕姫ちゃんは力強い首肯を返したのだった。



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