第17話 もう戻れない④

「はあっ!?」


 きょとんと目を丸くした聖山ひじりやまくんが、一拍遅れて素っ頓狂な叫び声を上げた。

 みるみるうちに顔を紅潮させる彼と対照的に、私の心はどこまでも静穏なままだ。至極冷静に彼を見つめて、「だって」と言葉を継いだ。


「あの頃私のことを一番気にかけてくれてた人って聖山くんだから」

「……確かに、あの頃金森を一番気にかけてたのは僕だと思うよ」茹蛸みたいに真っ赤に染まった顔を片手で覆って、項垂れながら苦々しく言い放つ。「僕以上にいつも金森を想ってる奴なんかいるもんか」


 すごい自信だ。軽く引きそうになったところで、聖山くんがそっと言い添える。


「今だって、そのつもりだった」


 聖山くんが相模にぶつけた言葉の数々が蘇る。

 そっと瞑目して、相模と出会ってからの半年間の出来事を追想した。

 危うくて、目が離せなくて、いつも私を見守ってくれていた聖山くん。中学時代の彼と同じように、私も今、相模が心配でたまらない。だから、


「この気持ちが恋なら、私は相模のことが好きなんだと思う」

「……そうか。じゃあたぶん、好きだったんだな。金森のこと」


 まだほんのり頬を蒸気させた聖山くんが、そっと目を伏せて、手折るような呟きを落とした。

 そう。すべては過去の出来事。

 今の私たちには、それぞれに違う思い人がいる。


杏南あんなちゃんのこと、どんな風に好きかわかった?」

「……離したくないと思うよ」


 目線を落としたまま、密やかに、けれど確固とした響きを伴わせて、聖山くんが答える。私も彼の言葉を受け止めて、幽かな頷きを返した。


「うん、私も。離れたくないって思う」認めて、やっと心が軽くなった。「ね、手借りてもいい?」


 瞳に訝しむような色を乗せて、聖山くんが躊躇いがちに包帯を巻いた手を差し出してくる。私は「や、そっちじゃなくて」と短く断って彼の左手を借りた。


 杏南ちゃんに悪いから、軽く重ねるだけに留める。

 大きさを比べるように手のひらをぴったりと合わせて、その温もりを感じた。相模のそれよりも薄く、小さな手。けれど骨格は男性的で、やはりあの頃とは違うのだと感じざるを得なかった。


「……うん。やっぱり私、相模がいいや」

「なんで僕が振られたみたいになってるんだよ」


 苦々しく吐き捨てて手を引っ込める。ひどいな、もう少し感傷に浸らせてくれてもいいじゃない。

 恨みがましい視線を向けると、聖山くんは一瞬声を詰まらせて、やがて照れくさそうに朱を散らした顔を首ごと逸らした。


「いい女になったな」

「高校生に言うセリフではないわね」やや引き気味に断じて、私も彼の真似をして言い添える。「聖山くんは昔からずっと、いい男よ」


 ちょいと小首を傾げて悪戯っぽく微笑むと、聖山くんは「やめろ」と恥じらってみせた。


 そうか、私は聖山くんのことが好きだったのか。


 怪我をした私に手当てしてくれたぎこちない手つき。鼻に皺を寄せて笑う表情や、呆れるくらいどこにいても熱心に注がれる視線。私に合わせて緩められる歩調。私が口を開く前に言葉を促してくる眼差し。


 ひとつひとつに恋をして、誰にも触れられることのないまま、今日まで私の奥底で密やかに呼吸し続けてきた。


 私たちがあの頃のように淡く心を寄せ合うことは、もう二度とない。

 だって、弾けないまま熟れた赤い実は、もう元の実とは違うものだから。


「私も聖山くんのこと好きだった」


 一つ息を吸って、穏やかな微笑を浮かべる。

 胸に浮かんだ想いを柔らかく舌に乗せると、聖山くんは一瞬瞠目して、それから気恥ずかしそうに目を泳がせて、くしゃりと顔を歪める。


「そうか」


 鼻に皺を寄せた、満ち足りたような、儚い微笑。

 きっと私も同じ顔をしている。


「うん。そうだ」


 子どもっぽく肯定して、二人で密やかな笑みを交わした。

 口元に指を添えてくつくつと笑う彼に、居ずまいを正して向き直る。


「私を助けてくれてありがとう。私もあの時の聖山くんみたいに、助けたいと思う人ができたの」


 今、焦がれるほど鮮烈に私の心を満たすのは、蕩けるように甘いミルクティー色。

 今度こそ、赤い実が弾けた。弾けて散らばって、どうしようもないくらいに私の脳裏と心を鮮やかに染め上げている。


 湊に縋った当然の帰結として、湊に誇れる姉であろうとした。

 間違えるわけにはいかない。弱さを見せるわけにはいかない。

 姉として湊の人生を背負う義務があると本気で思い込んでいた。


 家庭に閉じこもって、その重責に人知れず潰れかけていた私を強引に外の世界へと連れ出してくれたのが相模だ。


「可哀想なんて言わないで」と口にすれば益々憐れまれるだけで、なにも言えずに睨みつけるしかできなかったあの頃。

 地獄のような苦しみの中で聖山くんに恋をした、過去の私はここに置いていこう。


「可哀想な奴だって思われるのが私にとってド地雷なの、聖山くんは知ってるでしょ」


 相模が『不正行為疑惑の金森深琴』という汚名を塗り替えるために、私に『クズの相模の被害者』というレッテルを貼り付けたことくらい、私にだって想像がつく。


 けれど相模は、一つ大きな思い違いをしていたようだ。


 相模は私を想って私を追い込んでくれたようだけど、私に言わせたら見当違いも甚だしい。

 無理解な憐れみなんていらない。

 むしろ横っ面をぶん殴ってでもその認識を改めさせてやりたいとすら思っているし、実際、実行に移した前科もある。


「このまま黙ってやられっぱなしなんて、まっぴら御免よ」


 知らないのなら教えてあげる。

 お誂え向きの不幸なんてクソ喰らえだ。


 聖山くんは心底呆れたように肩を竦めて、ソファに沈み込んだ。


「許してやれよ」

「もちろん、許してあげるわよ。一発食らわせてからね」胸の前で握りしめた拳を掲げる。「私、大抵のことは殴って許すって決めてるもの」


 ソファーの背もたれに体重を預けて、聖山くんは顎を持ち上げた。片手で顔を隠すようにして「ははっ」と小気味よい笑みを溢れさせる。

 やがて肩の震えが収まった頃に、手を下ろして、柔らかく細めた瞳で私を映した。


「あんまり乱暴するなよ」

「言われなくても」


 だからもう、聖山くんも私に心を砕かなくても平気よ。


 立ち上がって荷物を抱えた。

 一人でドアまで向かい、廊下へ踏み出す直前で振り返る。


「じゃあ、またね」


 聖山くんが柔らかい笑みを返してくれる。

 それを確認して、私はドアを開け放った。一歩外に出るだけで、冷え切った空気が全身を撫でていく。一人聖山くんの残された保健室のドアを閉ざして、私は風を切って進んだ。



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