第17話 もう戻れない③


 無人の保健室の入口には『外出中』のプレートが飾られていた。


 聖山ひじりやまくんをソファーに座らせて、デスク横のトレーに積まれていた道具を勝手に漁る。コットンと消毒液を手に、聖山くんの隣に腰かけた。

 互いの膝と膝が触れ合う。その僅かな衝撃に、聖山くんは肩を落としたまま目線だけを持ち上げた。


「手、出して」


 力なく差し出された手を受け取って、消毒液を沁み込ませたコットンを傷口へ当てる。

「いっ、」聖山くんの体が小さく跳ねた。一瞬声を漏らして、気恥ずかしそうに唇を引き結ぶ。

 私がコットンで触れるたびに指先を揺らして、けれど懸命に声を出さないよう堪えてみせる様子が健気だ。同時に、水底に沈むように全身を満たす懐かしさを覚えた。


 使用済みのコットンをゴミ箱に捨てて、トレーから軟膏を取り出す。流石に私が塗ってやるのもどうかと思って無言で差し出す。彼も当然にそれを受け取った。

 ぎこちない手つきで軟膏を塗る手元をじっと観察していると、ふいに聖山くんが躊躇いがちに吐息を漏らす。


「ごめん金森」

「いいわよ別に。ていうか、私は許すような立場じゃないから」


 なにに対する謝罪なのか明言はなかったが、私にははっきりと理解できた。

 おそらく聖山くんは私を想って相模を殴ったのだと思う。だからといって、この件に関して私に聖山くんを許す権利はない。それは相模のみに与えられた特権だ。


 それでも聖山くんは殊勝な態度を崩さない。

 軟膏のキャップを締めながら、手元に視線を落としたまま力なく零す。


「……うん。でも金森にも謝らないとだ。約束破ってごめん」


 皮肉に目元を歪めた聖山くんの手に、自分のそれを重ねる。聖山くんが驚いたように顔を上げた。

 私は彼の手を丁寧に解いて、握りこまれていた軟膏を取り上げる。


「私のこと気遣ってくれたんでしょう?」

「それでもだよ。僕は金森にそっち側に行ってほしくなくて約束したのに、自分から破ってたら世話ないよ」


 一旦立ち上がり、トレーに軟膏を戻す。今度は大きめの絆創膏と包帯を手にして、再び彼の隣に戻った。

 聖山くんは膝の上に投げ出した己の拳を見下ろして、噛み締めるように呟く。


「なにかを守るためだとしても、人を傷つけることを厭わない人間になっちゃダメだ」

「……なら大丈夫。聖山くんはちゃんと自分も傷ついてる」


 聖山くんの手を掬い取って、傷口に絆創膏を張り付けた。すぐに剥がれてしまうとは思うけど、とりあえずの応急処置だ。

 上から包帯を当てて、締め付け具合を確認しながら巻いていく。


 三年前、私たちがまだ中学生の頃にも、今と似たような状況に置かれたことがあった。



 中学一年生の時、両親が離婚した。


 徐々に擦り切れていった心は、いくつもの些細な衝突を生む。

 今思えば、完全に家庭の外へ意識を向ける余裕を失っていたのだと思う。


 やがて私の置かれる家庭環境が明るみになると、周囲は途端に私を憐れむようになった。


 耐え難い苦痛だ。


 私は不幸ではないのに、誰にも理解してもらえない。誰にも私の言葉が届かない。


 そんなある日、クラスの男子に家庭環境について直接尋ねられた。そうして彼の口から放たれた『可哀想』の一言が耳に届いた瞬間、私は彼を思い切り殴りつけていた。


 激しい憎悪と悔しさに呑まれた私を羽交い絞めにして止めてくれたのが、聖山くんだった。彼は私に正しい生き方を説き、傷の手当てをしてくれた。



 私の胸には今もあの時彼にもらった優しさが根付いている。

 湊と同じくらい、今の私を形作っているのが聖山くんだ。


 誰にも声が届かない絶望の渦中で、たった一人、私の言葉を正面から受け止めてくれた。

 私が道を外れないよう、手を引いて連れ戻してくれた。

 なにかを守るために他のなにかを傷つけてはいけないと、愛し方を諭してくれた。

 血のつながった親でさえ見つけられなかった私の傷口に手を当てて、優しく私を叱りつけてくれた人。


 掛け替えのない恩人の顔をまっすぐに覗き込んで、彼の胸に届くように、一音ずつ真心を込めて紡いだ。


「ダメだなって思えるなら、まだこっち側にいるってことよ」

「……うん」

「……私は、相模もそうだと思ってる」


 包帯を巻く手元に目を落として、息継ぎもせずに付け加える。


「まだ間に合うの」


 視界の端で聖山くんが幽かに息を呑む気配がした。


 部室で座り込んだ相模の、悲痛な顔つき。

 私たちを深く傷つけようと鋭利な言葉を吐き捨てた眼差しを見て、確信した。


 相模は嘘を吐いている。


 人を傷つけるための言葉を叫びながら、自分が一番傷ついたって顔をしていた。ふざけんなと怒りが沸き上がった。だけど同時に、胸の底につっかえていた予感が正しかったことを悟って、途方もない安堵が溢れた。


 耳の奥で鹿島さんの静謐な声音が蘇る。


「相模には後でちゃんと謝るよ」


 聖山くんがため息交じりに零した。

 肩を落とした殊勝な態度が珍しくて、つい嗜虐心が頭をもたげる。


「気まずいなら着いていってあげよっか」


 冗談めかして問えば、聖山くんが心底嫌そうに眉を顰めた。見慣れた彼の表情だ。


「いらないよ、子供じゃないんだから」

「……私だって子供じゃないわよ」

「子供だろ、中学生は」


 中学時代、私が同級生を殴った際は、なぜか聖山くんが保護者面をして謝罪に付き添ってきたのだ。思えば、聖山くんの私に対する過保護は、そのときから兆候を見せていたのかもしれない。


 今日に至るまでの彼との軌跡を辿って、ふと、脳裏に浮かんだ問いをそのまま舌に乗せた。


「聖山くんって私のこと好きだったの?」



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