第17話 もう戻れない②
「ふざけるなよ相模ッ!」
結城くんとひなと共に部室へと向かっている最中だった。
部室まであと数メートルという地点で、体の芯が震えるほど張りつめた怒声と、なにかが倒れるような派手な物音が届く。
思わず三人揃って一瞬足を止めて、すぐに部室へと駆けだした。
あまりにも鬼気迫るその声は、私の知る彼からは想像できないほどにかけ離れていた。
しかしその一方で、脳味噌の一番深い部分が、もはや思考を巡らせる必要もないほどに私の予感が正しいことを主張してくる。
三人で雪崩を起こすように部室の入口まで辿り着く。まだその姿も見えないうちに、ほとんど反射的にその名を叫んでいた。
「
目の前には聖山くんの細い背中。
入口に背を向けるように立ち尽くしているため、その表情は窺い知れない。なにが起こっているのか把握するために一歩室内へ立ち入って、聖山くんの肩越しに覗いた光景に言葉を失った。
周囲の椅子を薙ぎ倒すようにしてその人は狭い床に仰向けに倒れ込んでいた。
肘をついてなんとか上体を起こし、そこら中に散らばった雑誌やらペンやらを掻き分けて、まるで嵐の中心に鎮座するように一息つく。そうして入口で立ち竦む私たちを視界に捉えて、相模は悲痛に瞠目した。
はくはくと薄い唇が幽かに戦慄いている。
片手で頬を抑えて、浅い呼吸を繰り返しながら私と見つめ合った。武骨な指の隙間から覗いた赤色に、私の心臓が一つ大きく跳ねる。
殴ったの。まさか、聖山くんが?
「お前に……、」声を震わせたのは聖山くんだった。「お前に、金森のなにがわかる」
体の横で握りしめた拳が細かく痙攣している。あの拳が相模を殴ったのか。
拳だけじゃない。聖山くんは全身を震わせて、背中に強い憎悪を滲ませていた。内臓を締め付けるように重く立ち込める衝突の気配が、一秒ごとにその濃度を増していく。背後でひなが短く息を呑む気配がした。
相模の視線が私から逸らされる。長い睫毛を下ろす仕草が、やけにスローモーションに映った。
そうして再び瞼を持ち上げた相模の瞳は、ぞっとするほどに乾ききっていた。
「はっ」
歪に唇の端を持ち上げて、淫靡な微笑を作る。
全身全霊を込めてぶつけられた聖山くんの怒りを鼻で笑う。相模は睨めつけるように聖山くんを見上げた。
「出たよマウント。聖山くんには金森さんのこと、なんでもわかっちゃうんだ」
「わかるよ。ずっと隣にいたんだ。金森のことならなんでもわかる。僕が一番知ってるんだ。僕が、ずっと……なのに、」
拳を強く握りこんだ聖山くんが、言葉を詰まらせる。
首ごと巡らせて、乱雑に物の散らばった床に視線を彷徨わせる。やがて座り込んだ相模の姿を正面から捉えると、その答えを見つけたようだ。
呻くように苦し気な声が、喉から溢れた。
「だから、相模ならって」
心臓を握りつぶされるような心地がした。知らず、胸元で両手をきつく握りこむ。
「相模なら任せてもいいと思ったのに、どうして」
「ははっ、任せるって」
相模の笑い声が空々しく跳ねる。
「何様のつもり? ただの同級生のくせして、俺と金森さんの問題に口挟まないでよ。そんなに気に入らないなら聖山くんが金森さんと付き合ったら? ほら、あの後輩ちゃんのことなんて捨ててさ」
聖山くんが息を呑む。一瞬で空気が震えた。
「このッ、」
「相模!」
私は反射的に聖山くんの体を背後から抱き留めていた。
彼が爪先を浮かせるよりも早く一歩踏み出し、迸る怒気に支配されるまま相模に襲い掛かろうとしたその体躯を寸でのところでその場に縫い留める。
「がッ、金森、」
「ダメ、ダメよ聖山くん」
背骨を折るくらいのつもりで、渾身の力を込めて聖山くんを抱きしめる。
聖山くんは苦し気に短く呻き声を上げて、首だけで私を振り返った。
「離せ金森っ」
「絶対嫌よ! 離したら殴るんでしょ!?」
抱きすくめた聖山くんの肩越しに相模と視線がぶつかる。
こうなることを予想していたくせに、琥珀色の瞳が驚愕に大きく揺らいでいた。ぽかんと開いたまま固まっていた唇が何かを紡ぎ出そうと幽かに震えたのを見逃さない。
これ以上この場で相模に言葉を継がせてはいけないと、私は聖山くんの背後から身を乗り出すようにして相模に吠えた。
「やめて相模!」私を引き剝がそうと抵抗していた聖山くんの動きが停止する。私は縋るように聖山くんの体を抱きながら、真っ直ぐに相模を見据えて呟いた。「お願い……もうやめて」
言葉尻には涙さえ滲んでいたように思う。
それくらい情けない声だった。
相模の整ったかんばせが悲哀にぐしゃりと歪む。それを見て、今自分がどんな顔をしているのかを悟った。
奥歯を噛み締めて喉を震わせた相模が、なにも言葉を発しないままぐったりと項垂れる。甘やかなミルクティー色の髪が垂れて、彼の表情のすべてを覆い隠した。
言葉の接ぎ穂を失って、ただ聖山くんの
そんな私を見下ろして呆然と立ち尽くす聖山くん。
深く顔を伏せて、呼吸の気配すら感じ取れないほどに静けさを纏った相模。
衣擦れの音すら憚られるような静寂を破ったのは結城くんだった。
ひなの肩を丁寧な手つきでどけて、私たちの隙間を縫うようにして室内に入り込む。流れるような動作で相模の眼前にしゃがみ込んだ。
「保健室に行こう」
「……いい」
吐息の隙間から漏れたようにか細い声。
結城くんはしばし逡巡して、浅いため息とともに振り返った。
「じゃあ金森さん、亮司の手当てをしてくれる?」
「いや、僕は……」
「手、赤くなってる」
言われて、聖山くんは自分の拳を確認する。私はようやく彼の体を解放して、隣から彼の手元を覗き込んだ。
相模を殴ったであろう右手の関節の辺りが赤く染まっている。よく見ると皮が剥けていて、薄く血が滲んでいた。
「……行きましょう聖山くん」
擦り剥けた部分に触れないように、聖山くんの手首を掴む。大した力は込めていないのに、彼の体はすんなりと私の誘導に従って滑った。
「……少し頭を冷やしてくるといい」
退室直前、結城くんが密やかに囁いた。
聖山くんはぐっと眉を寄せて、振り返らないまま項垂れる。
「悪い、誠」
泣いているみたいな声だった。
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