第17話 もう戻れない①


「……あ」


 ほとんど無意識に唇の隙間から零れる。同時、向こうもこちらの存在を認識した。

 透明なレンズの奥で理知的な輝きを宿した瞳が私を捉える。


「鹿島さんおはよう」

「おはよう、金森さん」


 向かい側から歩いてきた鹿島さんと、ちょうど正門の前で合流するように立ち止まる。


「今日は早いのね」


 何の気なしに呼びかけると、鹿島さんはこてんと可愛らしい仕草で首を捻った。


「わたしはいつも通りだけど」

「え?」


 もしかして、と時計代わりにスマホの画面を開いて、自分の登校時間が意図しないうちにずれていたことを悟った。

 ここ数日眠りが浅いせいで、以前よりも寝起きが悪くなってしまった。日に日に冷え込みの増す朝特有の澄んだ空気が、布団から這い出るのを億劫にさせているのもあるだろう。


「一緒に教室まで行きましょう」


 スカートの裾を翻した鹿島さんの後を追った。

 隣に並び立ち、昇降口を目指して同じ歩調で進む。駐輪場の傍らを通り過ぎる際、つい、見慣れた自転車が並んでいないか視線を彷徨わせてしまった。


 そんな私の気配を隣で敏感に感じ取った鹿島さんが、首を傾げるようにして私の横顔を覗き込んでくる。


「例の画像の件、なにかあった?」

「あー……別れたわ」

「別れた……?」


 ぱちぱちといとけない仕草で目を瞬かせる鹿島さんの横顔を一瞥する。幾ばくかの間を置いて、やや躊躇いがちにそのセリフを舌に乗せた。


「相模と別れた」


 端的に述べると、鹿島さんが一転、ぎょっと目を剥く。

 私は追及される前に早口で言い募った。


「私のこと利用してただけで、なんとも思ってなかったって。だから別れたの」

「まさか。そんなはずないわ」ほとんど私の声を遮るようにして鹿島さんが言葉を発する。「あなたは素直にそれを信じたっていうの?」

「そりゃまあ、本人が言ったことだし」


 鹿島さんの声には、聞いたことのない焦りの色が滲んでいた。あたかも私と相模の顛末を、心底信じられないとでも言うような眼差しを私に注いでくる。

 対する私の声にも、いじけたような、拗ねた子どもみたいな色が含まれていたように思う。それを自分で認めて、ようやく胸に詰まっていた重たい空気を吐き出した。


「……信じたくはなかったわ」


 相模が語った私たちの真実。

 

 あれからなんとか対話を試みようと校内で何度か声をかけた。しかしすげなくあしらわれ、LINEは未読のまま完全に放置されている。


 そうこうしているうちに、相模を取り巻く状況は悪化の一途を辿っている。またそれに伴い、校内での私に対する認識は『不正行為疑惑の金森深琴』ではなく、『クズの相模に浮気された可哀想な金森深琴』へと移行していた。


「相模くんとは話せたの?」

「別れてからは一度も」力なく首を振って答える。「きっともう無理なのね」


 私の弱音に、鹿島さんが目を眇めた。


「諦めるの? あなたらしくもないわね」


 そこに咎めるような色を感じ取ってしまったのは、単に私が敏感になってしまっているせいだろう。鹿島さんに私を責める所以も、責められる所以もない。

 いつだって私を責めるのは私だ。


「たぶん、認めたくないんだと思う。都合よく利用されてるだけの女だなんて」


 見透かすような眼差しに、つい、本音が溢れた。

 彼の好意に溺れないよう、いつだって必死に自分を律してきたつもりだった。だけどどうやら甘かったみたい。

 無意識のうちにはじめての恋に溺れて、降り注ぐ甘い言葉に酔いしれて、そうして無防備に醜態を晒していた。


 思わず釣り上げた片頬から苦笑が漏れる。


「ダサすぎるな、私」

「相模くんはそうは思っていないんじゃないかしら」


 鹿島さんは横目で私を見上げたまま、柔らかく私の言葉を断じる。


「あなたの気高さを、高潔さを、清廉潔白な生き様を、いちばん近くで見てきたのは相模くんでしょう」すっと視線を私から外して、軽く顎を持ち上げる。そうして遠くの朝陽に目を細めた。「どれだけ眩しかったことか」


 きっと眩しさに耐えられなくなったのね。ため息を漏らすように静かに添えられたひと言に、私は内心で首を捻る。


 眩しい? 私が?

 耐えられなくなったのは私の方だ。

 相模の無垢な心に触れるたび、自分がひどく醜い存在のように思えた。彼の優しさに応えられない自分が情けなくて、その愛情を独占していることが幸福で、そんな浅ましさが嫌になって。

 そうして今、そんな己の根底に潜む弱さに屈して、彼を諦めようとしている。


「信じたくなかった」数分前になぞったものとまったく同じ音。なのにさっきよりもずっと苦く感じるのは、皮肉ぶるのをやめて、本当の私が顔を覗かせてしまったから。「今も信じたくないの」


 出会ったときから、彼の言葉を信じることだけを、二人を結ぶよすがにしてきた。

 私が相模を信じて、相模が私を信じてくれて、そうすることで成り立ってきた私たちの関係が、その強固な信頼故に瓦解しようとしている。


 こんな結末、想像したこともなかった。

 彼を心底信じてあげたいと思うのと同じくらい、彼を手放すことが惜しくてたまらない。


 懊悩するうち、気づけば私たちは昇降口へと辿り着いていた。

 靴を履き替えてから再び連れ立って渡り廊下を歩き出す。


「それで、あなたはどうするの」


 会話と呼ぶにはあまりにも長すぎる間を置いて、鹿島さんが尋ねる。もはやそこに連続性は失われたように思えたが、私の脳味噌にはずっと彼の横顔が刻まれたままだった。おかげですんなりと彼女の望む答えへと辿り着く。


「なにを信じたらいいかわからないの」

「簡単なことよ」


 二年のフロアへ至る階段を昇りながら、私の二段先を行っていた鹿島さんが振り返らないままに告げる。


「自分の信じたいことを信じるだけ。みんなそうやって、世界は回っているの」


 一瞬覗いた鹿島さんの横顔は静謐なものだった。

 朝の澄んだ空気が満ちる踊り場で涼やかな声が反響している。


 彼女の並べた言葉の意味を、私は痛いほどに経験として知っている。


 誰も彼もが相模をまるでフィクションの登場人物のように信奉していたことも。

 私に対する流言が今なお水面下ではまことしやかに囁かれていることも。

 今私が公衆の面前で何を語ろうと、相模に対するマイナスイメージは払拭できないことも。


 すべて、人々が各自の望むものしか信じない故だ。

 この世界に嘘も本当も、正義も悪もない。ただ己の望むように咀嚼して、飲み込んだ結果が今を成す。

 当たり前のことすぎて、今の今まで頭の片隅にすら過ぎらせたことはなかった。


 虚を突かれたように目を見開いたまま言葉を失う私を歯牙にもかけず、鹿島さんは変わらない足取りで一段ずつ上り続ける。私もやや遅れてその背中を追い、二年のフロアへと至った。


 階段を上りきってすぐ、四組の前の廊下で、一人の男子生徒がロッカーの中身を整理していた。彼は歩み寄ってくる私たちの気配に気づくと、道を譲るように体を小さく縮こまらせた。

 それだけだった。

 無関心な眼差しが一瞬にして通り過ぎていく。

 今や学年で不名誉にも有名人となってしまった私と、天才少女と名高い鹿島さんが並び立っていても、ひとかけらの関心も寄越さずに、はじめから彼の世界に私たちは映り込んでいなかったかのように、私たちの交わりが完結する。


 やがて二組の教室に到着すると、鹿島さんは入口の直前でぴたりと足を止めた。半身で振り返って、澄んだ眼差しが私の影を真っ白な廊下に縫い留める。


「もしあなたが自分の信じたいものを見つけたその時は、わたしのところに来るといいわ。きっと力になれる」


 相変わらず温度のない声が、私の胸に熱を灯した瞬間だった。



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