第16話 最低⑥
リビングの窓を開け放って、庭に足を投げ出す。
少し顎を持ち上げれば、濡れ羽色の夜空にぽつりぽつりと小さな星が散らばっていた。
虫の合唱に耳を澄ませる。さわさわと草木を揺らしながら吹き抜ける冷え切った秋の空気が素足を撫でる感覚が心地よい。
「お姉ちゃん寒いよ、まどしめて」
リビングで宿題とにらめっこをしている
私は湊の声には応えず、静かに目を閉じて秋の空気に身を委ねた。
先輩と手持ち花火ではしゃいだ夏。
相模のことが嫌いではないと告げた自分の声が、鮮やかに耳の奥で蘇る。そうして悲痛に揺らぐ相模の声で塗りつぶされた。
途端に腹の底から吐き気にも似た熱が込み上げる。
──恥ずかしい。
いつから相模の言葉を本気だと思い込んでいたのだろう。
最悪な出会い方をして、最悪な一日を共に駆け抜けて、彼に好かれる道理などないのに、彼の振りまく甘い言葉を拒絶しなくなっていた。
たぶん、期待していたのだ。
相模に好かれていたかった。
いつの間にか相模の優しさに甘えていた。
ダサい。ダサすぎる。
こんな私になりたくなかった。こんな私見せたくなかった。
体の奥底から羞恥が溢れて、顔を覆って蹲ってしまう。
顔から火が出そうに熱い。時折涼しい風が吹き抜けていくことだけが救いだった。
「お姉ちゃーん、寒いよお」
ついに立ち上がった湊が私の元へ駆け寄ってくる。そうして私の肩に触れる直前でその動きを止めた。
「湊。お風呂入っておいで」
母だった。
エプロン姿の母が湊の両肩を掴んで引き留めている。湊が不満顔で母を振り返る。
「えー」
「湊が入らないなら、お母さん先に入っちゃうぞー」
冗談めかして脅すと、湊は態度を一変させて「やだやだ! 待ってて!」と脱衣所へ駆けて行った。
小さな背中が消えるのを見送って、母が満足気に吐息を漏らす。次いで柔らかい眼差しで私を見下ろした。
「隣座っても?」
返事を待たずに隙間に体を捩じ込んでくる。なんとか体を滑らせて一人分のスペースを空けるが狭いものは狭い。唇を引き結んで目を眇める私に母は上機嫌で笑いかけた。
「へへ。深琴とこんな風にくっつくの、久しぶりね」
母娘仲良く談笑なんて気分にはなれない。私は固く口を閉ざしたまま庭に視線を戻す。
母はそんな私の態度に気を悪くした様子もなく、じゃれ合うようにぴっとりと肩を寄せた。
「で、なにがあったの」
態度や表情とは裏腹にいたく真剣な声。
私は諦めて大きなため息を吐いた。
「……もっとマシな聞き方あるでしょ」
「そうねえ。でも、深琴とわたしは似てるから。言いたくなきゃ言わなくていいなんて遠慮してると、一生なにも言わないでしょう」耳元で吐息交じりに囁かれる。「それで結局潰れるの」
母は誰かを頼るのが下手な人だった。
何度縋られても自分一人でどうにかしてみせると意地を張って、抱え込んで、結局重圧に圧し潰されて。そうして最後は擦り切れて、父と離れてしまった。
私と似ている。……ううん、たぶん私は母と同じ道を歩もうとしている。
母もそれを察しているんだ。
「だから、わたしたちみたいのには多少強引なやり方が合ってるの」
「……うん」
微笑とともに告げられて、私は静かに頷いた。
本当にその通りだ。
「……彼氏がいたの」
瞑目して、まだそう遠くはない記憶に想いを馳せる。
「夏休みに言ってた?」
「うん。さっき振られたんだけどね」
少しばかり冗談めかして告白してみたが、母が茶化す様子はない。ただ静かに私の言葉に耳を傾けてくれる。
自分自身と対話をしているようで、心が無防備になっていくのがわかった。
恥ずかしいと思う気持ちも、自分を強くみせたいという虚栄心も沸かない。今だけはなにも取り繕う必要はないのだという底なしの安堵が、私の舌を滑らせていく。
「今までたくさん好きって言ってくれたの、ぜんぶ嘘だったんだって。私のこと都合のいい女として利用してただけで、好きでもないんだって。踏み込むなって怒られたわ」
卑屈に吐き捨てると、乾いた笑いが込み上げる。
それも秋の空気に溶け込んで、音をもたない吐息となってどこかへ消えていった。
ぼんやりと無感情に夜空を見上げる。
相模は突然目の前に現れて、強引に私の日常を搔き乱していった。
恋も愛も、私とは縁遠い世界の出来事だと思っていた。恋愛なんていらなくて、私には湊がいればそれだけでよかったのに。
私が文句を言うよりも早く手を取って連れ回して、無理やり私の気持ちを上向かせて、隣で派手に失敗してみせて、私の気を引いて、私の心を覗き込んで。
自転車と並走ってなによ。
そこは百歩譲って二人乗りじゃないのかよ。人の心は散々踏みにじるクズの分際で、律儀に道路交通法なんか遵守しやがって。
あいつのせいで三年の教室に誘拐されるし。相模オタクにも絡まれるし、体調崩すし、碌な一日じゃなかったわ。
結城くんの恋心も暴露しようとして。
「俺がいるじゃん」って何よ。その頃は付き合ってもいなかったのに、彼氏面しやがって。
人のことデスク下に押し込めて、あんな醜態を
強引に口を塞がれたのも納得いかない。いちいち距離近いっつーの。
毎晩のように通話しなくちゃいけないのも無理すぎる。なんであんなに喋ってるのに話のネタ尽きないのよ。おかげで夏休みなのに睡眠時間短くなったじゃない。
文化祭では
元々耳目を集める存在だったせいか、周囲の視線に無頓着で、私が何度恥ずかしい想いをしたか。人目も憚らずに「好き」とかデカい声で言うし、いちいち肩がぶつかるんじゃないかというほど近づいてくるし。
私の学校生活なんて、質素で、目立った事件もなくて、いつも家に帰ってからの予定ばかり考えていて、大した意味のない毎日だった。
それを相模が、ちゃぶ台をひっくり返すよりも簡単に、鮮やかに、なにかを思う間もなく覆してしまった。
どうしよう。
楽しかったことしか思い出せない。
だけどぜんぶ嘘だったんだ。
針谷先生に陥れられて、悲しくて悔しくて、だけど誰の負担にもなりたくなくて、誰にも寄りかかれずに潰れかけていた私に強引に寄り添ってくれたことも。
一人で解決してみせると意地になっていた私を諭してくれた、あの苦し気な声も。
私のために心を砕いてくれた、あの泣きそうな眼差しも。
ふと、母の手が私のそれに重なる。
同時に相模との記憶が火が灯るように蘇る。
相模が私の手を握り返す温もり。あのとき私は途方もない安堵に包まれていた。
救われたような、報われたような心地に酔っていた。ともすれば依存してしまいそうなほどの心地よさが恐ろしかった。
縋りたい、泣きたいと思ってしまった。そんなのは彼がはじめてだった。
理性ごと自分を手放してしまうような気がして、溺れてしまうのが怖くて、結局私は踏み出せなかった。
けれど、彼はそんな私を少しずつ拾い集めてくれたの。
耐え切れずに母の肩に額を寄せた。
母の手が私の後頭部に添えられる。髪の感触を確かめるように優しく撫でられる。
嘘に塗れた私たちの日々が、今日終わりを告げた。
一人で浮かれてバカみたい。
相模に踏み込まれていることに気づかなかった。
だから嫌だったんだ。相手の言葉や態度で一喜一憂して、自分を平静に見つめられなくなる。
かっこ悪いところ、恥ずかしいところを晒しているのに気づかないで、知らず知らずのうちに寄りかかって。そんなのは理想の私じゃないのに。
だけど今思い返してみると、相模と一緒にいる私のことは嫌いじゃなかった。
喉の奥が震える。
湿った呼吸が唇の隙間から溢れる。
気を抜くと歯が鳴って歪な音が頭蓋骨に反響する。そのたびに脳みそが揺らされるみたいにして理性が剥がれ落ちていく。
目の奥が熱くて、込み上げる激情を抑えられなくて、みっともなく母に縋りながらついに溢れ出す。
「私、相模に踏み込まれるの、嫌じゃなかった。嫌じゃなかったの」
どんなことがあっても泣かないように、挫けないように、一人で立っていられるように。
必死に取り繕ってきた自分がぼろぼろと崩れ去っていく。
誰かに寄りかからないと生きていけないような、弱い私にはなりたくなかった。
彼が好きだと言ってくれた強く美しいままの私でいたかった。
けれどもう無理だ。彼と出会うまでの自分には戻れない。
残ったのは弱くて脆い、最低な私。
涙がとめどなく溢れていく。
息をするだけで胸が苦しい。
私は、相模が好きだ。
認めてしまったら、もう、たまらなかった。
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