第16話 最低⑤
ようやく相模との接触が叶ったのは放課後になってからだった。
こんな風に一心に彼の様子を探ったことが、以前もあった気がする。
わずかばかり記憶の糸を手繰って、すぐに心当たりへと至った。
今年の五月。相模と私の出会うきっかけとなった事件。
あの日もどうにか相模と二人きりで接触するべく、一日中睨みつけるように彼に視線を注ぎ続けていたのだ。
思い返すと、私と彼がはじめて言葉を交わしてから約半年しか経過していない。
恋人という関係になってからはたったの四か月だ。
この半年間、誰よりも彼を真摯に見つめてきたという自負もある。
相模の本音に向き合えるのは私だけだという自信が、驕りが、私を彼の元へとまっすぐに突き動かしていた。
帰りの
彼を呼び止めるだけでも不本意な形で注目を集めてしまいそうだ。狙うなら校舎を出た瞬間しかない。
荷物をまとめた相模が廊下へ出る。
そうして昇降口に向かうのかと思いきや、なぜか今日に限って反対方向へと歩き出した。
昇降口とは正反対。人気のない階段を降りて、管理棟へと向かっているようだ。
違和感はあるが、都合がよかった。
渡り廊下を過ぎたところで呼び止める。
「相模」
ぴたり。相模の足が止まった。やけに緩慢な動作で振り返る。
睫毛を伏せて浅く息を吐き出してから、相模はゆったりとした口調で問いかけた。
「なに?」
心臓が早鐘を打ちだす。単なる緊張か。あるいは異性に対する恐怖心由来のものなのかは判然としなかった。
呼吸を整えて、ブレザーのポケットからスマホを取り出す。
大丈夫。シミュレーション通りに言葉を並べるだけだ。
スマホに鹿島さんから送られた例の写真を表示して、画面を相模へと突きつけた。
「これなんだけど」
私は相模の隣に写っている人物が夏休みに遭遇した女性であることを知っている。
そうしてこの写真が世間を賑わせていること、相模の名誉を回復するためにも、私にできることがあるなら打ち明けてほしいと告げるつもりだった。
けれど、私が言葉を継ぐよりも早く放たれた彼の声で、奈落に突き落とされたような心地に陥る。
「あーあ、バレちゃった」
相模は唇の端を持ち上げて、おどけたようにそう言い放った。
それはひどく歪な光景。
億劫そうに項を撫でながら、ゆったりとした足取りで私に歩み寄ってくる。前髪の隙間から覗いた瞳には温度がなかった。
「それ、俺のセフレなんだよね。金森さんも会ったことあるでしょ?」
私の目の前で足を止めて、薄い笑みとともに見下ろされる。
それはまさに私が口にしようとしていた内容だった。しかし乾いた声で言い渡されたせいで、用意していたはずの筋書きがまっさらに洗い流されてしまった。
虚ろに相模の言葉を復唱する。
「……セフレ」
「そ、体だけのお友達。彼女じゃないよ。でも金森さんと付き合い出してからも会ってる。こないだも家行ったかなあ」
……それはつまり、浮気の自白のようなものではないのか。
いやでも彼女ではないと言うし……現実逃避のように心中で言い募る。相模の言葉を信じようとこの場に臨んだ私にとって、彼の吐き出す事実はあまりにも残酷なものだった。
「もうバレちゃったみたいだから白状すると」相模はそこで一度言葉を区切った。懐かしい、そつのない微笑を浮かべて。「俺、ずっと嘘吐いてた。好きじゃなかったよ、金森さんのこと」
一瞬で体温が数度下がったような心地に陥る。体が芯から震えて、自分自身を抱きしめるみたいにスマホを胸元で握りこんだ。
相模はそんな私から顔を上げて、遠くに視線を投げる。
「俺が一年女子孕ませたって呼び出された日のこと覚えてる? 俺さ、ずっと女子が寄ってくるの鬱陶しかったんだよね。誰か彼女でも作れば落ち着くんだろうけど、それはそれで面倒じゃん? で、そこに金森さんが現れた」
琥珀の瞳が私を捉える。もう私の好きな色ではなかった。
「都合よかったんだ。金森さんって俺のこと絶対好きにならないでしょ? そのくせお人よしだからほっとかないし。だからこの人でいいやって思った。で、今日まで利用してた」
脳内の処理が追い付かなくて、相模の声が右から左へと流れていく。
なのに、その言葉だけははっきりと鼓膜の奥に刻まれた。
「そろそろ別れよっか、俺たち」
息を呑む余裕すらない。ただ、呆然と相模を見上げる。
「もう金森さんいなくても平気だし。そもそも俺、金森さんのこと好きでもなんでもないし。付き合ってる必要ないよね? 全部嘘だったんだから」
「待って」
もう後がないほどに危機的状況に追い込まれて、ようやく声を発することに成功する。
浅い呼吸を繰り返しながらなんとか舌を動かした。
「なにか、事情があるなら言ってほしい」
「だから今ぜんぶ言ったじゃん。今までに散々好きとか言ってきたの、ぜんぶ嘘なの」
「嘘よ」
ほとんど縋るような心地で相模を見つめた。
「私決めたんだから、相模のこと信じるって。相模がたくさん私を思い遣ってくれたことも、ひなや結城くんを大切にしてることも、ぜんぶ知ってる。ずっと見てきたんだから。だから、なにか事情があってこんな真似してるなら、」
「やめて」
ぞっとするほど底冷えした声だった。
相模が拳をきつく握りこむ。怒りにも似た色を宿した瞳が私を射抜く。
「俺の心は俺だけのものだ。金森さんの踏み込んでこないところが楽だったのに、どうして踏み込んでくるの? これ以上俺に踏み込まないで」美しいかんばせがぐしゃりと苦痛に歪む。「そんな人だと思わなかった」
頭を思い切り殴られたかのような衝撃。
相模の吐き出した言葉がじくりじくりと私の胸を蝕んでいく。
──あなたからその言葉は聞きたくなかった。
相模の瞳から強い熱が抜けていく。
そうして代わりに、内側に潜む炎を消し止めるように、琥珀に薄く膜が張られていく。
窓から差し込む斜陽が、彼の輪郭を朱く浮かび上がらせる。舞い上がった埃が星々のように幻想的に煌めき、その奥で琥珀が大きく揺らいでいた。
白い喉が幽かに震える。
薄い唇が戦慄いて、何かを紡ぎ出そうとして失敗したように閉ざされる。幾度も繰り返す。
そのたびに私は絶望と一縷の希望の狭間で乱暴に突き飛ばされて、やがて感情の溶け切った頃に相模の声が私を無情に貫いた。
「金森さんといると、苦しいことばかりだ」
嵐の中で喘ぐように苦し気な声。
相模が口を閉じると、辺りには肌を突き刺すような痛みばかりの沈黙が満ちる。
言葉を失い呆然と立ち尽くす私を見下ろして、相模は静かに呟いた。
「俺のこと殴ってもいいよ。それで気が済むなら」
そうして私の反応を待つようにじっとその場を動かないまま見つめてくる。
けれど、私は指先一つすら動かせない。
ただ目の前の男を視界に映し続けた。
やがて相模が諦めたように短く息を吐く。
それだけだった。別れの文句すら残さず、相模は私の前から姿を消した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます