第16話 最低④

 チャンスだと思った。



「相模」


 駐輪場に自転車を停めて、冷え切った指先に息を吹きかけて温めている最中だった。

 いつもの柔らかい声音と穏やかな顔つきをすっかり強張らせて、結城くんが俺を呼び止める。


「おはよ」


 俺がいつものように挨拶をすると、結城くんは一瞬面くらったように目を見開いてから「おはよう」と返した。

 結城くんとは登校時間が被ることが多い。

 駐輪場なり昇降口なりでばったり遭遇して、そのまま二人で教室まで向かうこともしばしば。


 せっかく俺がいつものように振る舞ってみせても、結城くんは俺の意図を汲んではくれない。だからと言って別に怒ったりはしないけど。……彼がなにを危惧しているのかわからないほど、俺も鈍感ではないのだ。


「前話したこと覚えてる?」


 俺がそう問うと、結城くんはきょとんと目を瞬かせた。

 それは文化祭直後のこと。

 金森さんや宇梶さんのいない場所で、二人きりで言葉を交わすことも多い。けれど、お互いあんな風に本音を吐露し合ったのは、あの一度切りだ。


 察しのいい結城くんなら、きっとすぐに思い至るだろう。

 少しばかり試すような気持ちで、あえて彼の神経を逆撫でするような言葉を並べる。


「やっと見つかったんだ。俺が金森さんのためにできること。だから邪魔しないでよ、まーくん」


 俺がわざとらしくそう呼ぶと、結城くんはわかりやすく眉間に皺を寄せた。


「……こんなときにふざけるなよ」


 低く呻くような、苦し気な声。

 爽やかな微笑が印象的な結城くんには似合わない、苦悶の滲んだ顔つき。

 宇梶さんも金森さんも、結城くんのこんな顔見たことないんだろうな。


 結城くんは誰が見たって裏表のない、根っこから善良な人だ。

 だけどどんなに誠実な人だって、大切な人に見られたくないことや知られたくないことの一つくらいは持っている。


 俺もそうだ。

 むしろ、俺みたいな薄汚れた人間に隠し事がない方がどうかしていると言ってもいいだろう。

 想えば想うほどに打ち明けるのが恐ろしくなって、必死に取り繕ってきた。

 そうして遂に、すべてが白日のもとに晒される日がやってきたのだ。


 SNSで見つけたムギちゃんと俺の写真。

 一瞬で計り知れない恐怖に包まれると同時に、一縷の希望を見つけたように感じた。


 これをうまく使えば、金森さんを現状から助けられるかもしれない。

 はじめて彼女の心に報いることが叶うかもしれない。


 脳裏に学年一位の優等生が吐き捨てた言葉が蘇る。

 今までの俺のやり方では、どうやら彼女に報いることはできないようだ。なら、もう誰かを利用するのはやめよう。

 次は俺自身を利用する。

 そうしてこれを最後にしよう。あとはどこまでも堕ちていくだけだ。


 今こうして呑気に呼吸をしている瞬間にも、一秒ごとに自分が追い詰められていくのを肌で感じる。きっと彼女も同じ感覚を味わっていたに違いない。

 だけど俺の目論見通りに事が進めば、もうすぐ彼女を陽の当たる場所へ連れ戻すことが叶う。


 結城くんにはとっくにバレているようだ。ここはひとつ協力してもらおう。


「金森さんには言わないでね。あと宇梶さんにも。宇梶さんから伝わっちゃうから」

「ひなちゃんはそんな子じゃないよ」


 結城くんが眉を顰めた。

 あまりの一途さに乾いた笑いが込み上げてしまう。彼の恋心を馬鹿にしたつもりはなかったけど、声には嘲りにも似た色が乗ってしまった。それでも眉ひとつ動かさない結城くんは、やはり俺とは人間の出来が違うのだと思う。


「ははっ、本当に宇梶さんのこと好きだねえ」

「好きだよ、大好き。誰にもあげない」

「……俺も」


 金森さんがいるであろう校舎の方に視線を投げて、ため息みたいに吐き出す。


 彼女が好きで好きで、もう自分じゃ抑えられない。どうしようもなく大切だから、やっぱりこの選択は間違っていないんだと思う。


 俺の腹はとっくに決まっているというのに、結城くんは俺を解放するつもりはないみたい。本当にどうしようもないほどお人よしだ。流石金森さんの信頼を勝ち取った男。

 こんな場面なのに、素直に感心してしまう。


「相模。それは誠実なやり方じゃないよ」

「うん、そうだね。俺もそう思う」


 痛ましい眼差しでそっと囁いた結城くんに、俺は神妙に頷いてみせた。


「俺、やっぱりうまくできないみたいだ」


 無理やりに唇の端を持ち上げて笑みを作る。

 結城くんはまだなにか言いたそうだったけど、俺はそこで会話を切り上げた。

 これ以上言葉を重ねてしまうと、決意が鈍ってしまいそうで。


 こんな風に本音をぶつけられる相手が自分にもできるなんて、想像したことすらなかった。

 文化祭で告げた通り、すべて彼女が俺に与えてくれたもの。


 だから俺は、どんなに最低なやり方でも、彼女を救えるならなんだってやる。







「相模」


 彼女に呼ばれてゆったりと振り返る。

 ああ、遂にこの瞬間が訪れてしまったんだ。


 俺は手折るような心地でそっと瞼を下ろした。



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