第16話 最低②

「まるでポトラッチね」

「なにっち?」


 そんなキャラいたっけ。はるか昔で止まったたまごっちの記憶を発掘してみる。鹿島さんは至極冷静に訂正した。


「ポトラッチよ」


 その日の放課後、私は二組の教室にいた。鹿島さんと二つの席をくっつけて、向かい合うような形で座っている。週明けの小テストに向けた二人きりの勉強会だ。


 鹿島さんは手元のテキストに視線を落としたまま、淡々とした声音で語り出す。


「富を分配するための儀礼のことよ。宴を開いて、招待客に贈り物をするの」

「へえ……」


 それが今の話題とどんな関連性を持つのだろう。

 私は確か、先日会ったあきちゃんの話をしていたはずだ。


 鹿島さんはそんな私の疑問を敏感に読み取って、一つずつ丁寧に説明してくれる。


「日本に暮らすわたしたちでさえ、贈り物をされたらお返しをするでしょう。わかりやすく言うと、ポトラッチはその拡大版。贈り物をされたらより大きなお返しを、さらにお返しのお返しを……と繰り返して、最終的にお返しができなくなった方が負ける」

「負けるとどうなるの?」

「潰れる」


 透明な声で紡ぎ出されたその言葉は、一瞬にして私の心臓の温度を下げた。


「潰れる……」

「あなたの叔母さんも、潰れないように必死なんじゃないかしら」

「……なにが、明ちゃんを潰そうとしてるっていうの」


 私も母も、明ちゃんを潰そうなんて欠片も考えたことすらない。

 明ちゃんが潰れる道理などないはずだ。


「良心。あるいは信念」


 鹿島さんがようやく顔を上げる。レンズ越しに透き通った眼差しが私を捉えた。


「応えたいと思う心が、応えられない自分を責める信念が、自分自身を押し潰すのよ」


 明ちゃんはかつて自分のせいで母が将来を諦めたことに負い目を感じ、過去の行いを取り戻すかのように母に、私たち家族に尽くしている。

 鹿島さんが言いたいのは、畢竟そういうことだ。


「……ただ夢を叶えようとしただけなのに」

「そうね。けれど、夢を叶えるにもお金がかかるものよ」


 さもありなんと頷いてしまう。

 私だって、まさに今かつての母と同じように決断を迫られ、そうして全く同じ道を歩もうとしている。


 私の未来のために家族を苦しめたくない。

 けれどもし、私の選択により将来湊が明ちゃんと同じ道を歩んでしまうのなら、今、私はなにを選ぶべきなのだろう。


「みんなが幸せになれる方法があればいいのに」

「あるわよ」

「えっ」


 あるの?


「国公立ならなるべく学費を抑えることが可能よ。わたしもそのつもりだし」

「んん、私の成績だと……」

「なら私立でも学業特待があるじゃない。奨学金と併せれば、あなた自身の生活は多少苦しくはなるけど、家庭への負担は抑えられるわよ」


 学特か。そういえば、すっかり失念していた。


「それとも、そこまでするほどの夢ではないのかしら。なにか学びたいことはないの?」


 学びたいこと。私の夢、あるいは目標。


「……ある」


 以前からぼんやりとは浮かんでいて、そうしてつい最近、明確なきっかけを経て、当初とは形を変えながらも辿り着いた答え。


「でもやっぱり自信ないわ」


 肩を竦めて乾いた笑みを浮かべた私に、鹿島さんはきょとんと首を捻った。


「なに言ってるの。あなたなら楽勝でしょう」


 それははじめて見る彼女の表情。心底不思議だと言うように、子どものような無垢な眼差しが私の胸をまっすぐに射抜く。


 不正行為疑惑が持ち上がってから、学業成績については疑われることばかりだった。

 今まで必死に積み上げてきたものがぶち壊されたような、過去の努力にすら裏切られたような心地がして、思い返せば漠然とした不安に呑まれないよういつも必死だった。


 聖山ひじりやまくんにノートを借りたのも、こうしてわざわざ二組で鹿島さんと勉強会を開いているのも、その証左だ。


 込み上げる高揚感に、舌がもつれる。視線が泳ぐ。顔に熱が集中していくのがわかる。

 私ってこんなに単純だったんだ。


「いや、ら……くしょうかはわかんないけど。うん。頑張ってみるわ」

「ええ。頑張りましょう、一緒に」


 一緒に。付け足された一言が、こんなにも心震わせる。

 ……もう少し、足掻いてみようかしら。


 気を抜くと唇の端が緩んでしまいそうになるのをなんとか堪える。そのとき、廊下から女子の密やかな話し声が響いた。


「あっ、あの人じゃん。相模くんの彼女」


 心臓が小さく跳ねて、私も鹿島さんも自然と動きを止める。


「相模くんて佐女さじょの子と付き合ってるらしいよ」

「え? 一組の子じゃなくて?」

「だから浮気でしょ」

「マジ? あんなイケメンなのに」

「イケメンだからじゃない?」


 密やかな嘲笑が遠ざかって、やがて足音すら届かなくなった。

 鹿島さんがひっそりとため息交じりに囁く。


「次からは図書室にしましょうか」


 私はただ静かに首肯を返した。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る