第15話 ほどける⑥

 結局二人並んでゴールに辿り着く頃には授業終了間近になっていた。


 雪崩を起こすみたいに体調を崩したひなは、授業が終わる前に保健室に連行された。そうしてその日教室に戻ってくることはなかった。


 帰りのSHRショートホームルームが終わって、ひなの荷物を抱えて保健室へと駆け込む。ベッドの上で上体を起こしたひなが聖子先生と談笑していた。


「ひな、持ってきたわよ」

「わ。わざわざごめんね」


 ベッドの傍らに荷物を下ろすと同時、聖子先生が私に呼びかける。


「災難だったね、金森」


 砕けた言い方だったが、なにを示しているかはすぐに理解が及んだ。


「はい。でももういいんです。おかげでひなともっと仲良くなれたので」


 私が真っ直ぐに先生を見据えてそう告げれば、ひなは上機嫌に頬を蒸気させて微笑んで見せる。

 聖子先生はそんな私たちの様子を眺めて、呆れたような柔らかいため息を吐き出す。そうして一転、いたく真剣な眼差しで私を射抜いた。


「だけどまだつらいでしょう。嫌になったら、すぐここに来るんだよ」


 労わるような優しい声に、静かな首肯を返す。

 そう、問題はまだ解決していない。

 私にはもう一人、きちんと言葉を交わさなければならない相手がいるのだ。







「ひな、また明日ね」


 保健室の扉を閉めて、すぐにポケットからスマホを取り出した。

 LINEを起動して、わずかな時間だけ画面上で指先を彷徨わせる。

 何度も首を捻って、結局通話を選んだ。文字じゃなくて、きちんと声が聞きたい。


 驚くほど短いコール音の後、その声はやや焦ったように耳元で響いた。


『はいっ』

「……相模?」

『うん。なにかあった?』


 私の身を案じるような声音に、喉元が熱くなった。見たこともないような温度を乗せて、その声は唇から迸る。


「会いたいの。今どこにいる?」


 静かに息を呑む気配の後、控えめな返答。


『……教室。待ってて、そっち行くから』

「い、いいわ。私が行く」

『ううん。俺が行くから、場所教えて』

「じゃあ……工芸室の前」


 なるべく人のいない場所の方が都合がよかった。相模が「わかった」と短く告げると、間髪入れずに派手な物音が響く。机にぶつかる音。急いで移動してきてくれているんだ。


「そ、そんなに急がなくていいからっ」


 慌てて呼びかけたが、相模にきちんと伝わっているかは疑わしい。

 通話をつないだまま、私も大急ぎで廊下を駆け抜けた。


 保健室も工芸室も一階に位置しているため、移動にそう時間はかからない。

 ばたばたと足音を立てながら廊下を折れて、渡り廊下に差し掛かったところで自然と足が止まる。


 工芸室を挟み、教室棟と管理棟をつなぐ渡り廊下の向こう側で、相模が私を見つけて立ち尽くしている。


 腕から力が抜けて、ずっと耳元に当てられていたスマホが体の横に降りる。

 相模がいる方向に自然と足が動いてしまう。

 まるで向かい合った磁石のように、真っ白な頭のまま引き寄せられていく。


 私も相模も、互いを見つめ合ったまま同じペースで工芸室前へと歩み寄った。


 相変わらず人気のない廊下には、自動販売機の低く唸るような駆動音だけが時折響く。


 なにも言わずに立ち尽くす相模に、私は一つ息を吸い込んでから静かに告げた。


「相模がこの一週間……ずっと前から、私の見えない所でたくさん気を遣ってくれてたこと、知ってるわ。相模が、私のことを大切にしてくれること、ちゃんとわかってる」


 だからきちんと謝りたかった。

 なにも言わずに避けてごめんなさい。

 心配してくれたのに、話せなくてごめんなさい。

 あなたが私を想ってくれるように、私もあなたを想っていると。


 だけど、もう自分では抑えきれないほどに、相模を男性として意識してしまっている。

 脚が竦む。呼吸が乱れる。心臓が意思を持ったみたいに勝手に暴れ出す。


 今まで相模にどれほど距離を詰められても、どんな風に触れられても許せてきたのは、私があまりにも無垢だったせいだ。

 男と女の差。

 敵わないという本能的な恐怖。


 本来もっと早い段階で、丁寧な過程を経て知っていくはずだった。私はそれを、たった一瞬で、あまりにも暴力的な方法で心身に刻み込まれてしまった。


 誰かに恋焦がれることは、素晴らしいことなのだと、根拠もなく漠然と思っていた。

 だけどもうわからない。

 人を好きになるってなに。


 焦げ付くような恐怖が心を雁字搦めに捕らえて、私を臆病に引き摺り込む。


 不規則で浅い呼吸を繰り返す私を静かに眺めて、相模はそっと囁いた。


「金森さん。握手をしよう」


 顔を上げて瞠目する。

 相模がこちらへ手を差し伸べてくる。


 私と相模の距離は二メートルほど。握手をするには、いくらか近づかなければならない。


 相模は空中に手を浮かべたまま、小動ともせずに私の反応を待っていた。


 肋骨を突き破って飛び出しそうなほど暴れ狂う心臓を、制服の上から両手で抑えつける。

 廊下に縫い付けられたみたいに足が張り付いて動かない。

 前へ、前へ。何度も信号を送っているのに、体が言うことをきかない。


「……ぅ、」


 喉の奥から私の意思と無関係に呻き声が漏れた。

 相模の指先がぴくりと跳ねる。


 宝石を嵌め込んだように透き通る琥珀色の瞳が、ティーカップの表面が揺らぐみたいに薄い膜を張って輝いた。


 その煌めきが、私の背を押してくれる。

「誰かを大切にするのは難しい」とあどけなく零した、いつかの瞳の輝きが、彼の目が好きだと思ったかつての私が、廊下に張り付いていた私の足を優しく丁寧に引き剥がす。


 一歩踏み出してしまえば、その後は簡単だった。

 差し出された手のひらの目の前に立ち、自分の手を伸ばす。


 私より日焼けしていて、私よりも大きくて、硬くて、ごつごつした武骨な手。

 私を蹂躙したそれとよく似た男性的な手が、幽かに震えている。


 私を傷つけてしまわないか、私よりも怯えた、優しくて、臆病な手のひら。

 文化祭ではぐれた私を繋ぎとめたときのように、指先がぶつかり、表面の感触を確かめるみたいに手のひらを滑って、静かに握り込んだ。


 互いに言葉を発せないまま時間だけが流れていく。

 密着した三十六度が溶け合って、二人の境界が曖昧になっていく。

 それがどうして、こんなにも心地よい。


「たくさん、頑張ったんだね」


 幼子に言い聞かせるように優しい声に顔を上げた。


 相模の声が、言葉が、干乾びてひびの入った地面を潤す慈雨のように、心の隅々まで染み渡っていく。複雑に絡まって固まってしまった心の糸が、柔らかい手つきで解かれていく。


 やっと、やっと終わった。







 一人で駐輪場へと消えていった相模を見送る。今日、私は一人で帰路につく。

 わざわざ別れたのは、相模の優しさ故。まだ異性に対する恐怖の拭えない私を気遣ってくれたのだ。この一週間そうしてくれたように。


 異性と同じ空間にいることも恐ろしいが、一人で放り出されるのもまた心細い。

 わがままな己に辟易しつつ、正門を出ようとしたときだった。


 門の陰に薄暗く人のシルエットが浮かび上がって、心臓が跳ねる。


 胸元を抑えて立ち竦す私を発見すると、その人は静かに歩み寄ってきた。


「こんばんは」


 鹿島かしまさんだ。

 全身を支配していた緊張感が一瞬にして抜けていく。私も慣れたもので、「こんばんは」といつものように同じ言葉を返した。


「あなたに見せたいものがあるの。……いえ、見せた方がいいかもしれないもの、と言うべきかしら」


 曖昧な言い方は鹿島さんらしくなかった。

 やがて躊躇いがちに制服のポケットからスマホを取り出すと、手元で白い光が広がる。私は引き寄せられるようにその光のもとへと足を進めた。


「先に言っておくと、見てもあまり気持ちのいいものではないわよ」

「……じゃあ、どうして」

「見ないと、また知らないうちに傷つくから」


 覚悟を問うような眼差しに息を呑む。

 一度深呼吸をしてから、鹿島さんの手元を覗いた。


 スマホの画面に表示されていたのは、私も使っているSNSのページだった。

 一瞬見ただけで、誰かのツイートだと言うことは理解できたが、添付されている画像の中身まではよく見えない。


 鹿島さんの指が滑って画像が拡大表示される。

 その全貌を脳みそが理解した瞬間、息を呑んだ。


「これ、あなたの忠犬でしょう」


 甘やかなミルクティー色の髪が特徴の、制服姿の男子。背景はどこかのコンビニのようだ。店内から溢れる白い灯りでその輪郭が綺麗に浮かび上がっている。


 相模の腕に絡まる、白く細長い、女性の手。

 艶やかな黒髪はゆるくカーブを描き、胸元まで垂れている。


 私ではない、黒髪の女性と腕を組んだ相模が、そこにはいた。


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