第15話 ほどける⑤

 今週二回目の体育の授業。


 前回同様準備運動を済ませ、スタートラインへ並ぶ。

 いつものように列の後方で待機して、即座に目を疑った。


 いつもは見学者としてスタートラインでストップウォッチを構えているはずのひなが、なぜか今日は私の隣に立っている。

 つまり今回の授業は見学ではなく、走者として参加するつもりなのだ。


「ひ、ひな。本当に大丈夫なの?」


 抑えきれなくなって、つい傍らのひなを覗き込んだ。

 ひなはぱっと表情を華やがせる。やる気十分! というように両の拳を胸の前で握りこんだ。活力の満ちた瞳で私を見上げる。


「今日は体調いいから大丈夫!」

「そう……」


 それなりに距離があるから、走り慣れていない人ではゴールに辿り着くかも怪しい。ひなはおそらくコースをきちんとは把握していないはずだ。途中でリタイアする姿がありありと脳裏に浮かび上がった。


「よーい、スタート!」


 体育教師の号令で先頭集団が一斉に飛び出す。

 走り始めて最初の方はどうしてもほとんどの生徒が固まってしまう。集団が解けるまではひなと並走を続けた。


 やがて校舎を離れ広い道に出ると、人の姿もまばらになる。


「頑張って食らいつくから、置いていかないでね」


 そう宣言したひなの顔は既に真っ赤に染め上げられている。呼吸のリズムも不規則で、息遣いからして既に苦しそうだ。

 必死に脚を動かし続ける親友の横顔を一瞥して、私は浅く唇を噛む。


「……ひな、ごめん先行くね」

「え、」

「これから先も、ひなとは一緒に走れない。ごめん」

「なんでっ、そんなこと言うの」

「例の事件、ぜんぶ私のせいだった。だからもうひなとはいられない」


 規則正しく吐き出される息に乗せて、胸につかえていた言葉を無理やりにぶちまけた。


 ああ、言ってしまった。


 後悔と自責の念に襲われて、逃げるように大きく一歩踏み出す。

 それまで体力を温存していた分ぐんぐんと速度を上げて、道いっぱいに広がる生徒の隙間を縫うようにして前進し続けた。


 そうして少しすると、集団の中腹くらいに辿り着く。前方を走っていた運動部たちの姿は流石に見えなかった。それでも既に後方集団とはかなり水を開けられたはずだ。


 もう追い付かれることはないだろう。

 完全に油断しきっていたそのときだった。


 どんっ! 後ろから獣にでも体当たりされたみたいな衝撃。

 思わず体がつんのめって、なんとか倒れ込まないように脚を踏ん張る。私の背に勢いよく衝突したその人物は、そのまま私の腹に両腕を回してしがみついてきた。


 息も絶え絶えに振り向いて瞠目する。


 私の体操着に顔を擦りつけるようにして荒い呼吸を繰り返し、ひなが私を背後から抱き留めていた。


「はっ、ぁ、なんで、」

「やだっ」


 私の背に額を擦り付けるみたいに激しく首を振る。


「やだやだっ! ひな離れないもん!」

「ひな、」

「深琴ちゃんがなんて言っても、深琴ちゃんが嫌がっても、ひな絶対深琴ちゃんから離れないから! ずっと一緒にいるんだから!!」


 ほとんど泣き叫ぶみたいな声だった。

 私に縋りつくひなの膝が、がくがくと震え出す。そうして私の体操着を引っ張りながらその場に崩れ落ちた。


「ひなっ、大丈夫」


 私も慌ててしゃがみこみ、ひなの薄い背中を擦る。

 ひなは何度も激しく咳き込みながらも、けして私を放そうとはしなかった。


「みっ深琴ちゃんがなに言ってるかっ、わかんないよ……! げほっ」


 ひなの背を擦りながら、唾を飲み下す。

 言いたくない。けれど、今、言わないと。


「一年前のも、この間のも、ぜんぶ私を狙ったものだったの」


 私が震える声でそう告げると、ひなは呆然と私を見上げた。


「私が目的だったのに、その……犯人のミスで、ひなになっちゃって、それで、今年はちゃんと私で……」ぐちゃぐちゃに絡まった頭ともつれる舌では、どんなに必死に言い繕っても滅茶苦茶な言葉しか出てこない。「私のせいでひなが巻き込まれたの!」


 チョコレート色の丸い瞳が、波が立つように大きく揺らぐ。


 認めたくなかった。


 勝手に彼女を助けた気になって、寄り添って癒して勝手に気持ちよくなって。

 本当に最低としか言えない。

 私が彼女を苦しめた張本人なのに。


「こんな風にひなを傷つけて、私もうひなの隣にはいられない……っ」


 情けない声で呻いて、砂を握りこんだ。

 そのまま立ち上がろうとして失敗する。ひなが強く私の腕を掴んで引き寄せたのだ。


「お願い深琴ちゃん……ひなのわがまま聞いて」

「だって、私がひなを傷つけたの。私が巻き込んだのよ」

「違うよ。ひなが傷ついてるときに、たった一人ひなを救い出してくれたのが深琴ちゃんなの。もう忘れたの? 言ったでしょ、深琴ちゃんなんだよ、ひなに火を灯したのは」


 ひなの眦から涙が溢れ出す。


「深琴ちゃんが狙われたとか、ひなが巻き込まれたとか、関係ないよ。ひなは深琴ちゃんと一緒にいるときのひなが好き。深琴ちゃんと出会うためなら、どんなつらいことだってあってよかったって思うんだよ」


 通りかかった生徒がすれ違いざまに私たちを見下ろしてぎょっと目を剥く。

 誰かに見られているとか、気にならなかった。

 目の前で透き通った涙を流す美しい少女に釘付けだった。


「ひな、今からずるいこと言うね」一つ間を置いて、ひなは私の腕を掴んでいた手をそっと放した。そうして今度は私の胴に回し、肩口に額を擦り付けてくる。「ひなを置いていかないで。一人にしないで」


 涙に濡れた声は、いつか胸に落とされたものとよく似ていた。


「ひなたち、もうおんなじ傷を背負ったんだよ。今さら離れる必要なんてない」


 縋るような温度が、哀願するような声が、じんわりと私の胸に染み入る。


「大事なのは、ひなが深琴ちゃんのことが大好きで、深琴ちゃんがひなのこと大切にしてくれたこと。それだけだよ。それ以外、なんにもいらないの。こうしなきゃいけない、なんてことはないんだよ。深琴ちゃんがどうしたいかだけ。ひなは……深琴ちゃんがひなとおんなじ気持ちでいてくれたら嬉しい」


 ひなの言葉はそこで尽きた。

 代わりに、すんすんと鼻を鳴らす控えめな嗚咽が私の胸に落とされる。


 犯した罪が消えないなら、これ以上傍にいてはいけないのだと思っていた。

 だけどひなはそんな私の凝り固まった思考を体当たりで吹き飛ばしてくれた。


 罪が消えないのなら、逃げるのではなく、償わなければ。

 同じ傷、同じ痛み、同じ罪を背負って、そうして時にもがき苦しみながらも生きてゆこう。


「私も、ひなと一緒がいい……っ」


 ひなの細い肩に手を回す。

 そうして乱れた赤い髪に鼻先を埋める。


 汗の匂い。


 離れたくないと思った。



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