第15話 ほどける④

 針谷はりや先生の休職により、一組の現代文は現在三組を担当している志村しむら先生という女性教師が受け持つことになった。


 担任の働きかけの甲斐あって、クラス内で私への嫌疑は晴れつつある。とはいえ期末テストの結果次第では、また「カンニングしたから」などと揶揄されることは容易に想像がつく。


 三組といえば聖山ひじりやまくんの所属するクラスだ。

 期末テスト対策のため、これまでのノートを見せてもらう約束を取り付けた。気が早い自覚はある。しかし彼なら志村先生のやり方を熟知しているであろう。


 朝、登校してまずは一組へ。

 自分の席に荷物を置いてから再び廊下へ戻ると、ちょうど三組の教室から聖山くんが出てきたところだった。


「おはよう。いいタイミングね」


 ロッカーを覗き込んでいる聖山くんに歩み寄りながら呼びかける。彼はこちらを一瞥して扉を丁寧に閉じた。


「足音が聞こえたから。来たなって」

「え、足音だけで判別したの?」


 なにそれ怖い。やや引き気味に尋ねた私をじろりと睨めつけ、呆れたように大仰に肩を竦めてみせる。


「金森の足音くらいわかるよ。もう三年も付き合ってるんだから」


 いや私は聖山くんの足音なんてわからんけど……。つい零れそうになって、慌てて言葉を飲み込んだ。

 私の様子を訝しみつつも、聖山くんがノートを差し出してくる。


「ありがとう。助かるわ」

「突然休職なんて、一組も大変だな」


 なにも知らないという風な語り口。胸の底で静かに安堵が溢れた。

 だから私も努めて平静に「そうね」と受け答えたのに、聖山くんは探るような眼差しをじっと私に注いでくる。

 気づかないふりをしてノートに目を落とす。やがて頭上から躊躇うような吐息が届いた。


「……金森、一つ聞いてもいいか?」


 彼に問われれば、私の答えはいつだって決まっている。

 聖山くんなら、


「いいわよ」


 顔を伏せたまま承諾する。やや逡巡するような間を置いて、聖山くんはそれを口にした。


「平気か?」

「平気よ」


 変わらず平坦な声で返したはずが、聖山くんは大きなため息を吐いてしまう。


「平気じゃないんだな」

「なんでよ。平気って言ってるじゃない」

「お前が平気って言うときは平気じゃないんだよ」


 じろりと湿度の高い眼差しで見つめられて言葉に詰まった。

 上手い反駁の文句も思いつかず、言い逃れをするように意識を遠い過去に馳せる。


「それ、昔結城くんにも言われたわ」

「だろうな。誠もよく見てるから」ため息まじりに零して、控えめに私の瞳を覗き込む。「言いたくなければ言わなくてもいい。……なにがあった? 誠に訊いても教えてくれないんだよ」


 ……そう。やっぱり結城くんが情報を堰き止めてくれていたのね。

 聖山くんに知られないようひっそりと、胸に詰まった空気を吐き出す。

 そうしてようやく、目の前に立つ彼の姿を見据えた。


 背丈は相模よりも低く、私とそれほど変わらない。

 枯葉色の髪は中学時代とほとんど変わらない形のまま。見た目で変わった点といえば、眼鏡のフォルムくらい。


「……聖山くんなら、大丈夫なのよね」

「は? なにが」


 ほとんど無差別に沸き上がる男性への恐怖心が、聖山くんに対してのみちらともその気配を覗かせない。それはたぶん、中学時代の経験によるものだ。


 彼が私に危害を加えないどころか、私を守ってくれる存在であることを、身も心も知り尽くしている。知りすぎて、もはや警戒の余地など欠片も残されていないのだ。


 こんな風に並べてみるとなんだか綺麗な響きに思える。しかし有り体に言ってしまえば、彼を異性として認識することができないのだった。


 聖山くんには失礼かもしれないけど、今はそれが、唯一の心の拠り所となっている。


「落ち着いた頃に話すわ。ちゃんと自分の力で証明してみせるから、それまで待ってて」


 受け取ったノートを胸の前で掲げて、力強く見つめ返した。

 眉一つ動かさずに私を観察していた聖山くんが、ようやく気の抜けたような、あるいは呆れたような吐息を零す。辺りに弛緩した空気が溢れた。


「……わかった」レンズ越しの瞳が切実な色を浮かべて私を映す。「だけどなにかあったら、すぐ僕に言ってほしい。僕はいつでも金森を見てるから」


 一瞬、脳裏に赤毛が過ぎった。

 こめかみの辺りを襲う弱い頭痛を堪えて、幽かな首肯を返す。


 私の胸には、聖山くんが私を思い遣ってくれた確かな過去がある。

 それは私がひなを傷つけたという事実と同じ。消えない、一つの事実。


 犯した罪が消えないのなら、私にできることは一つだ。



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