第15話 ほどける③
毎年この時期はマラソン大会が開かれるため、体育の授業も長距離走が中心となる。
田舎のため周辺は車も少ない。校舎を中心として人気のないコースをぐるぐる巡るのだ。
元々体が弱く、近頃は体調を崩しがちであったひなは授業には参加しない。スタート地点でストップウォッチを携えて見学をしていた。
ふと、路肩のひなと視線がぶつかる。ひらひらと可愛らしく手を振られた。
いつものように笑顔で手を振り返しそうになって、我に返る。
曖昧な微笑を浮かべて、胸の前だけでそっと手を掲げて返事とする。
瞬時に曇ったひなの表情から目を逸らすように、首ごと正面を向いてなるべく意識を遠くに投げた。
「よーい、スタート!」
体育教師の号令で一斉にスタートを切る。
先頭集団が抜けてから、密度の低くなった集団の隙間でスタートラインを通り越す。視界の端に映りこんだひなが私を一心に見つめていたような気がした。
しばらく走ると校舎を離れ、あぜ道に突入する。生徒の姿もまばらになった頃、すぐ背後から規則正しい足音と呼吸音が届いた。
道を譲ろうと端に寄る。しかし、通り過ぎるかと思われたその足音は、ぴったりと私の隣に密着する。そうしてそのまま私と並行し出した。
「こんにちは」
規則正しい呼吸の合間で呼びかけたのは
しかしまさか、向こうから声を掛けられるなんて想像していなかった。
驚きながらも、なんとか同じ言葉を返す。
「こんにちは」
「一緒に走ってもいいかしら」
もう走ってるけど。頭の片隅で補足しつつ、私は鹿島さんを受け入れた。
「
「そう」
「大丈夫?」
出し抜けに問われて、なにがと目だけで尋ね返す。鹿島さんは絶えず足を動かしながら、じっと横目で私の表情をつぶさに観察していた。
「怖いのでしょう、男性が」
ぎゅっと心臓を握り潰されるような心地に襲われる。
見透かされているようだと思った。実際、見透かされている。
「……うん」
手の甲に刻まれた赤い線が疼く。
男性の気配を感じるだけで、声が聞こえるだけで、心臓が暴れ出す。背中にじっとりと不快な汗が滲む。
血の繋がった父ですら顔を合わせるのに躊躇ってしまう。
もし父を目の前にして、確かな恐怖を抱いてしまったら、その時点で親子関係が決定的に瓦解してしまうように思えてしまって。
今朝も相模が迎えに来ていないことに安堵が溢れてしまった。
教室内でも相模や結城くんと距離を置くことでなんとか心の平静を保っている。大切な二人に対して、男性だからという理由だけで恐怖も嫌悪も抱きたくない。
「失礼だってわかってるから、怖がらないようにしないとって心掛けてはいるの。だけどどうしたって、怖いものは怖いわ」
すっかり弱気に支配されているようだ。いつもだったら抑え込めるはずの弱い自分が、息を吐き出すのと同じようにすらすらと淀みなく溢れ出てしまう。
あるいは、相手が鹿島さんだからだろうか。
絶望的な状況で、さながらヒーローのように颯爽と登場した鹿島さん。
鮮やかな手腕で私を救い出してくれた人。誰にも見られたくなかった、弱い私の姿を、図らずも見つけてしまった人。
「誰のことも嫌いになりたくない。……できれば、針谷先生のことだって」誰かを恨むことは途方もない体力を消費するのだから。「私これから、どうすればいいのかな」
そこまで吐き出して、視界から鹿島さんが消えていることに気づいた。
おや、と足を止めて振り向く。へろへろになった鹿島さんが朧な足取りで私の後を追っていた。
顔中に汗を浮かべて、今にも倒れそうに表情を歪めながら。
「……歩こっか」
私の提案に鹿島さんが渋面で頷いた。
「げほっ……ごめんなさい。体力がなくて」
「いいわ、私もちょっとペース早かったし」
周囲に教員の姿はない。ここなら歩いても問題ないだろう。
「っは、……だからなの、赤い女の子とも離れているのは」
荒い呼吸の隙間で、鹿島さんが途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
赤い女の子。ひなのことか。
「……ううん」
私はゆるやかに首を振った。
私がひなを嫌いになる道理など存在しないからだ。
「ひなには、嫌われたくないの」
鹿島さんが胡乱な眼差しで私を見上げる。
見透かしてくるような透明な瞳に映されると、すっかり隠し事ができなくなってしまうようだった。
「ちょうど一年前に、同じ事件がひなにも起こったの」
「それも、針谷先生が?」
「そう」
鹿島さんの表情が幽かに曇る。
流石学年主席の才女。その聡明な頭脳は、一瞬にして正解へと辿り着いたようだった。
「すべてあなたの責任だと言いたいのね」
「事実だもの」
「事実は、針谷先生があなたとあなたの友人を陥れた。それだけでしょう」
鹿島さんの並べた事実は、すべて私へと帰結するものだ。
私が無暗に針谷先生へと手を差し伸べた。その結果、私への歪んだ想いが無関係のひなを巻き込んだ。
もう私には、彼女の隣にいる資格はない。
嫌われたくないというわがままを叶える代償として、せめてこれ以上彼女を傷つけるような真似は避けよう。
ひなから離れる理由には十分すぎた。
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