第15話 ほどける②

 天高く馬肥ゆる秋が訪れた。

 澄み渡る蒼昊を背景に、登校中に見える遠くの山も仄かに色づき始めている。

 十一月に入って、ぐっと朝の冷え込みが厳しくなったように思う。


 登校中も、教室に到着してからも、ずっとその影に怯えていた。

 もうこの場所で会うことはないとわかっているのに。


 金曜日の夕方、応接室に一人残された後。私と学年主任、担任の三人で今後の対応について話し合った。詳細は後日校長も含めて会議で決定されると告げられて、私は真っ先にこれ以上大事にしたくないと伝えた。


 もう、なにもかも一切に疲れ果ててしまった。

 話し合いのために針谷はりや先生と顔を合わせるのも恐ろしい。

 自分が体験した内容を何度も違う相手に説明するのも億劫だ。

 被害を訴える気力も、怒りをぶつける体力も残されていない。


 ただ一つ、名誉回復だけを望んで、私にまつわる聴取は切り上げられた。


 私が強く望んだことで、被害については両親には伝えられていない。事態を大きくしたくない学校側としても、私の申し出は都合がよかったのだろう。


 だからこの件の仔細を知っているのは、先生たちと、私。そして私を窮地から救い出してくれた鹿島さんだけ。


 針谷先生は現在休職中となっているが、近いうちに退職の手続が取られるだろう。土曜日に私のスマホへ学校から連絡があり、安心して登校してほしいと告げられた。


 針谷先生はもういない。

 頭では理解している。だけど廊下を歩きながら、どこかのドアから突然飛び出してくるんじゃないかなんて妄想に取り憑かれて、勝手に心臓が暴れ出す。

 針谷先生のものではないと知りつつも、どこからか男子の声が響くだけで落ち着かない。


 浅い呼吸を繰り返して教室に辿り着いた。私を待ち受けていたのは、赤い髪を揺蕩わせた愛しい親友の姿。


 教室に入ると同時にひながはっと顔を上げる。そうして一直線に私の席まで駆け寄り、気遣わし気に顔を覗き込んだ。

 言わんとしていることはわかる。

 だから私は荷物を置き、黙ってひなの手を取って、隣の教室へと連れ込んだ。


「もう大丈夫。解決した」


 ドアを閉め、ひなが口を開くよりも先に振り返りながら告げる。

 ひなは瞳を大きく揺らがせて、不安の消えない声で首を捻った。


「本当?」

「私がやったことじゃないって先生たちにもわかってもらえた。だから反省文も書いてないし、無効になった分の点数も戻ってくる。ぜんぶ終わったの。安心して」


 矢継ぎ早に言葉を重ねても、ひなの表情は晴れない。

 わかっている。先生たちの間で無実が証明されても、クラスを中心に私を取り巻く環境が改善されるわけではない。

 だからひなも一年間苦しみ続けたのだ。


 そう、私が一年間、ひなを苦しめた。


 罪悪感から自然と顔が下を向く。

 一連の事件の被害者であるひなには、事の顛末を洗いざらい打ち明けるのが筋というものだろう。


 だけど怖い。

 打ち明けてしまえば、私は二度もひなを傷つけることになる。

 ひなに嫌われてしまう。


 彼女を失った自分を想像すると途方もない恐怖に襲われる。声が喉に張り付いてしまう。


 今私にできることは一つしかなかった。


「……ひな。お願いがあるの」

「なに」


 ひなの瞳が幽かに輝く。身を乗り出すようにして私の瞳を覗き込んだ彼女を、私は奥歯を噛み締めて見下ろした。


「しばらく一人にしてほしい」


 チョコレート色の瞳に絶望が浮かぶ。


「どうして……?」

「ごめん。色んなことに疲れちゃって……一人でゆっくりする時間が欲しいの。だからしばらくはひなと一緒にはいられない。代わりは結城くんに頼んでほしい。……わがままなのはわかってる。だけどお願い、聞いてほしい」


 小さな手を包み込んで、縋るような眼差しで訴える。ひなはぐっと唇を噛み潤んだ瞳で私を見上げた。

 なんて卑怯なやり方。私がこうすれば、彼女は絶対に拒絶できないのだから。


「……わかった」


 やがて諦めたように、涙色の声でひなが呟く。


「だけどなにかあったらすぐにひなを頼って。深琴ちゃんの力になりたいの」

「……うん」


 私はあなたに助けてもらうような価値のある人間じゃないのよ。

 心中でそう嘯きながら、表面上でだけ納得したように首肯してみせた。



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