第13話 真実の在り処③

 私が不正に手を染めたという噂は、翌日には一部の生徒の間で知れ渡っていた。


 教室に一歩入った瞬間に悟る。向けられる視線が昨日までとまったく異なっていた。


 ああ。私はこの目を、よく知っている。

 一年前はきっと、私も向こう側にいたんだ。


「深琴ちゃん」


 ひなは混雑を避けるために、いつも私より早く登校している。だからこうして席に到着すると同時に呼びかけられるのは、毎朝のことだ。


 けれど、こんなにも悲痛な眼差しで名前を呼ばれたのは記憶にない。


 やっぱりひなだけは、すべてわかってしまうんだ。


 朝からなんて顔してるの。そんな軽口を叩けるような余裕もなく、私はただ静かに頷いてひなの席へと赴いた。


「あ、あのね。ひなもさっきちらっと聞いただけなの」


 戸惑いがちに告げられた言葉。なにを示しているのか、わざわざ言われなくともわかる。


 相模や結城くんはまだ登校していない。

 昨日ははぐらかしてしまったから、今日こそきちんと事情を説明しないと。けれど、一体なにをどの順序で伝えればいいのだろう。

 迷っているうちに、教室内にいた誰かが私の代わりでも務めるように口を切った。


「やっぱマジなんだ、カンニングしたの」

「なにそれ」

「え知らない? 昨日誰かが言ってたじゃん。金森さんが現代文でカンニングして呼び出されたって」

「あー昨日の放送ってそれ?」


 囁くようなやり取りは、やがて教室中に伝染していく。


「金森さんって針谷はりやのお気に入りじゃなかったけ」「え、じゃあ今までもカンニングしてたから成績よかったってこと?」「普通に頭いいひとだと思ってた」「全然そんな風に見えないのにね」「宇梶うかじさんもそうじゃん」「宇梶さんと仲いいってそういうこと?」「最低」「そんな子だと思わなかった」


 あちこちから声が湧いて、それがまた別の声に埋もれていく。もはや誰が発したものかも判然としない。

 それらすべてが私の鼓膜の奥に積み重なって、脳みそをわずかな隙間もないほどに満たしていく。


 ぐるぐるぐるぐる。昨日から胸の内に蟠ったままの不快感が、逃げ場をなくして胸を搔き乱す。


 今ここで潔白を叫べば、なにかが変わるのだろうか。


 そんな妄想は、所詮現実逃避の甘い夢だ。目の前にいるひなが一年前に、その身をもって証明済みである。


 体裁も体面もかなぐり捨てて、子どもみたいに喚き散らしてやりたい。

 私はやっていない。なにも知らない。誰かに陥れられた。


 けれどこの場に私の主張を信用する者はいないだろう。むしろこういうのは、大きな声を出すほどに疑惑が深まるのだ。


 なにも言えない。悔しさと虚しさばかりが募って、胸がはちきれそうになる。

 心臓を満たす痛みに耐えかねて崩れ落ちそうになったそのとき、ひなが勢いよく立ち上がった。


 唖然とする私の手を掴み、荒々しい足取りで私を引きずるように歩き出す。

 平生の足音を立てないしずしずとした歩き方なんて忘れてしまったみたい。スリッパの踵で強く床を踏みしめながら足早に教室を出た。


「ひ、ひなっ」


 ひなは無言のまま私の手を引いて歩き続ける。階段を降りて、一階へ。

 渡り廊下を渡った先には工芸室がある。いつか二人で勉強会を抜け出しデートと言う名の買い出しに訪れた、あの人気のない自動販売機の前。


 そこまで辿り着いて、ようやくひなの脚が止まった。


「違うのに」


 ぽつりと零した声は震えていた。


「……ひな」


 細い肩を掴む。こちらを向かせて、息を呑んだ。

 チョコレート色の瞳から大粒の涙が滝のように流れている。


「違うのに……っ、深琴ちゃんはやってないのに……!」


 ぶるぶると全身を震わせて、ひなは私の胸に泣き崩れた。

 ひなの嗚咽が、湿った吐息が、とめどない涙が、私の胸に落ちていく。


「深琴ちゃんはなんにも悪いことしてないっ。深琴ちゃんがそんなことするはずないってわかってるのに……こんなの深琴ちゃんに知ってほしくなかった。ひなだけでよかった。どうしてひなじゃだめなの、どうして深琴ちゃんまでこんな目に遭わないといけないの……!?」

「……うん、ひな」

「深琴ちゃんは違うよっ」


 ひなの慟哭が鼓膜を震わせる。脳裏にこびりついた無数の声が剥がれ落ちていくような心地に陥った。


 昨夜からずっと胸に滞留していた暗澹たる靄が晴れていく。

 ひなの涙が、言葉が、想いが、私の心を洗い流していく。




 世の中には平凡な人生を送るためのレールのようなものがあって、いわゆる普通の人として生きていくためには、そのレールから外れることなく生きていかなければいけない。

 昨日、私はそのレールを外れてしまったのだと、はっきりと理解した。


 人は誰しもが些細なきっかけでこちら側へ転がり落ちる。

 怒りの矛先も、悲しみの所以も、責任の所在も判然としないまま。踏み出した先の地面にぽっかり穴が空いたみたいに、誰のせいでもなく瞬く間に吸い込まれてしまう。


 ないまぜの感情に支配されるばかりで涙すら流せない混乱の極致にいた私を、ひなが救い出してくれた。

 こんなにも絶望的な状況なのに、同時に私は恵まれていると感じてしまう。それはたぶん、愛しい親友が私の代わりに泣いてくれるから。


「ありがとう、ひな」


 ひながいなかったら、私はさっき、あのまま教室でぺしゃんこに潰れてしまっていた。

 涙も流せず、怒りに狂うこともできず、誰にも看取られないまま静かに朽ちてしまっていただろう。



 ひなのおかげで、私、まだ戦えるよ。



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