第13話 真実の在り処②

 そんな風に不安を抱えたまま、なんとか問題なくテスト最終日まで駆け抜けた。


 相模も今回はすべての教科で自信を見せている。やはり元々自頭がいいタイプなのだろう。

 私の相模更生計画も着々と成果に結びついてきたようだ。


 テストは先週の金曜日で全日程終了した。土日を挟んで今日から返却が始まっている。鬼門である現代文は明日返却される予定だ。


 いつものように四人で机を囲んだ月曜日の昼休み。突如校内放送で男性教師の強張った声が響いた。


『二年一組、金森かなもり深琴みこと。至急職員室まで来なさい』


 二度にわたって繰り返されたその言葉は、のどかな空気の満ちていた教室中に波紋を生んだ。和やかな談笑が、一瞬にして動揺を色濃く乗せたざわめきへと変化する。


「は?」


 ぽかんと口を開いて停止する私に、教室中の視線が集中する。

 見ると、ひなや結城くんも私と同じような顔をしていた。唯一相模だけが「金森さんなにやらかしたの」と湿度の高い眼差しを注いでくる。


「し、知らない知らない!」

「だろうね。今の声、針谷はりや先生ぽかったから、またなんか手伝わされるんじゃない?」


 肩を竦めて、やれやれといったようにため息を吐き出した相模。お前、冗談でもおかしなこと言うなよ。焦ったじゃない……!


 どれくらい拘束されるかは不透明だ。とりあえず食べている途中だった弁当を閉じて片付ける。まだ半分も食べられてないのに……。


「じゃあ行ってくる」


 重々しい声とともに立ち上がった。

 相模が「行ってら~」とやけに軽い調子で手を振る。ひなだけは心底私の身を案じたように不安げな眼差しで見送ってくれた。やはりひなしか勝たんか……。







 いつものように雑用を頼まれるだけなら、長くても十五分程度で解放されるだろう。

 そんな自身の見通しの甘さを悟ったのは、職員室に到着したと同時。待ち構えていた担任が応接室へと行き先を変更した瞬間だった。


 応接室なんて、滅多なことがなければ一般の生徒は入室が許可されない。

 私も今年の春に相模との出会いの一件で勝手に乗り込んだのが最初で最後だ。


 先を歩く担任はいつになく強張った顔つきをしている。私も自然と全身に緊張が走る。

 そうして室内へ一歩入った瞬間、その予感は正しかったのだと理解した。


 促されるままに下座のソファーに腰を下ろす。

 対する上座側には担任と、学年主任。そして緊張した面持ちの針谷先生がいた。


 針谷先生の膝には書類の入ったクリアファイルが置かれていた。自然と私の視線もそこへと注がれる。


 私の意識を現実へ引き戻したのは、学年主任の低く唸るような声だった。


「金森。どうしてここに呼ばれたか、心当たりはあるか」


 嫌な質問の仕方だ、と思った。


 うちの学年主任は武骨でいかつい見目をした男性だ。ただそこにいるだけでも威圧感がある。

 肺を圧迫するような重い空気に呑まれないよう背筋を正す。私は毅然とした声で答えた。


「いえ」


 学年主任の背後で担任が幽かにため息を吐く。悪い予感がした。


「針谷先生」学年主任に促されて、針谷先生が膝に置いていたクリアファイルを手に取る。そうして中から三枚の紙を取り出した。


 二枚は同じ大きさ。A3サイズの紙。

 もう一枚は、文庫本程度だろうか。小さな紙だったが、遠目からでも文字がびっしり書き込まれているのがわかる。


 それら三枚を目の前のテーブルに差し出されて、私は身を乗り出すようにしてA3の用紙二枚を見下ろした。


 膝の上で揃えた両手の平に汗が滲む。

 知らず、背中を冷たい汗が伝った。

 さっきから心臓がどくどくとうるさい。呼吸が浅くなっていくのが自分でもわかる。


 A3の用紙は、それぞれ先週行われた現代文中間テストの、私の回答用紙と教員用模範解答だった。


 そうしてもう一枚、文庫本サイズの用紙に書き込まれた文字と見比べて、自分がなぜここに呼ばれたのか、なにを疑われているのかを瞬時に理解する。


「これが模範解答、こっちが金森の回答用紙──」もうわかっているのに、学年主任が一枚ずつ丁寧に言い聞かせてくる。「そしてこれが、試験後に金森の机から見つかったものだ」


 最後に文庫サイズの用紙を人差し指で撫でて、下から覗き込むように鋭い視線を私に向けた。

 一瞬にして奈落に突き落とされたような戦慄が爪先から全身を走る。


 ……なにこれ。


「わかるよな」

「わかりません」


 質問の意図も判然としないうちに、反射的に否定の言葉が口をついた。

 それが余計に疑念を深めたようだ。私に注がれる学年主任の眼差しが一層鋭さを増す。


「金森。先生たちだってな、はじめは信じられなかったよ。真面目なお前がこんなことをするなんて。だけど複数の生徒がこれを見つけてるんだ。お前の机から」

「知りません」

「知らないはずないだろう。お前の机に入っていたんだ」


 だから、私にはそれがわからないの。


 全身が震えるばかりでうまく声を発することができない。座っていてよかった。さっきから下半身に力が入らない。もし立っていたらこの場に崩れ落ちているところだった。


「金森。お前はよく針谷先生を手伝っていたな」

「……はい」

「他の先生の目がある中で、針谷先生の机に近づけるのはお前だけなんだよ」


 確かに私はアシスタントとして、頻繁に針谷先生のデスクを訪れていた。しかも本人のいない間に。そうしてなにがどこに仕舞われているかも、ある程度は把握している。


 今回の問題作成者は針谷先生だ。


 つまり先生たちは、私が事前に針谷先生のデスクから模範解答を盗み出してカンニングペーパーを作成し、中間テストにおいて不正行為を働いたと主張しているのだ。


「し、知りません。私こんなの知らないです。……ぁ、ほら、こことか、全然回答違うじゃないですか、ここも、ここも。こんなに間違ってるのに……」


 言いながら、これは有効な証拠にはならないと気づいた。


 本番であえて違う回答をすることで偽装する可能性なんていくらでも考えられる。回答が違うからといって、無実の証明にはならない。


 そう、確かに私なら可能なのだ。

 他のどの生徒よりも圧倒的に、一連の犯行を成功させる可能性が高い。


 ……ああくそ。そんなことはこの場にいる全員がわかってる。今は疑いを晴らせるような証拠を提示しなければならない場面なのに。


 酸欠でぐちゃぐちゃに絡まった脳みそを無理やり回転させても、もつれる舌が紡ぎ出すのは無意味な主張ばかりだった。


「やってないです、知らないです……!」


 学年主任が呆れたようにため息をついて、大袈裟に首を振ってみせた。

 目を伏せて、疲れたように眉間を揉んでいる。


 やめて、ねえちゃんと私を見てよ。知らないの。本当になにもわからないの。


 浅い呼吸を繰り返すばかりの私に、学年主任は無情な宣告をつきつける。


「詳細は後で伝えるとして……反省文と謹慎は覚悟しておくように。当然、今回の試験では現代文の点数を無効とする。それからご両親にも今日中に連絡をする」

「やめてください!」


 両親に伝えるのだけは絶対にダメだ。

 やっと母が回復して、父が戻ってきて、二人の仲が修復されて、もとの家族の形に戻ろうとしているのに。ここで私が足を引っ張ってはいけない。


「反省文も謹慎も、他はなんでもやります。だから親に連絡するのだけはやめてください。お願いします……!」

「金森」


 学年主任が呆れたように深く息を吐き出したそのとき、隣の針谷先生が声を上げた。


「岸先生。金森は母子家庭で、そのお母さまも療養中のはずです」


 針谷先生には私の家庭事情を少しだけ話したことがあった。

 本当かと問うような学年主任の視線に、私は首肯をもって答える。


「それにやっぱり、金森がこんなことするなんて考えられませんよ。もう少しちゃんと調べてからの方が」

「針谷先生。私だって、金森がこんなことする生徒だとは思っていませんでしたよ。ですが」

「お願いします。そもそもデスク周辺に生徒を自由に出入りさせていた私の落ち度です。だからどうか、金森の処分を待っていただけませんか」


 至近距離から針谷先生に頭を下げられて、学年主任の強面が崩れる。

 明らかに困惑したように眉尻を下げるのを見て、私も深く頭を下げた。


 お願いします、お願いします……みっともなく何度も必死に繰り返す。やがて根負けしたのは相手だった。


 予鈴が鳴る前には一時的に解放されて、私の詳細な処分については近いうちに改めて言い渡される運びとなった。

 それまでに反省文だけは提出するようにと、原稿用紙の束を押し付けられて。







「失礼しました」


 丁寧な一礼の後に、ゆっくりとドアを閉める。

 廊下へ出てからも足の震えが止まらなかった。押し付けられた原稿用紙がやけに重く感じる。


 ひとまず解放されたが、未だに状況をきちんと呑み込めてはいない。

 自分の身になにが起こったのか、これからなにが降りかかるのか。


 漠然とした不安が一息に押し寄せる。気を抜くと立っていることすらままない。押しつぶされてしまいそうになる。


 ともに応接室を出た針谷先生が痛ましい眼差しで私を見下ろす。


「金森」


 呼びかけられて、力なく先生を見上げた。

 針谷先生の喉が震える。武骨な両手が私の肩を掴んだ。眼鏡のレンズ越しに痛いくらい真剣な眼差しが注がれる。


「俺は誰かの悪戯だって、金森じゃないって信じてるよ。誰がなんと言おうと、俺だけは金森の味方だから」


 針谷先生の張りつめた声音に、私はただ奥歯を噛み締めて頷くことしかできなかった。



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