第12話 見つめてくれるなら⑤
文化祭一日目は終了し、大半の生徒は既に帰宅している。
私は廊下で実行委員担当の先生にばったり遭遇してしまい、ちょうどいいからと仕事を任されて会議室に居残っていた。
会議室には私一人だけ。蛍光灯の無機質な白い灯りと、窓から差し込む燃えるような夕陽の朱色が混ざり合っている。
呼吸と、衣擦れと、マジックペンが賞状の上を滑る音だけが響く。
今年の文化祭では、複数の部門で表彰が行われる。
たとえば売上。そして参加者投票で最も優れた企画に選ばれた団体に贈られる賞。校長や実行委員が選ぶものもある。
設置された賞は多岐に渡り、私が今作成しているのは初日分だ。
集計を元に賞状に書き込みながら、重いため息が漏れてしまう。
こんなのほとんどこじつけだ。
売上や参加者投票はまだ納得できるとして、校長賞も実行委員賞もいらないだろ。
きっとどんなものにも順位をつけたがる人がいるのだと思う。はじめから競ってすらいないのに、勝手に評価されて、勝手に順位をつけられて、勝手に褒められる。
バカらしいと一蹴したくなる。純粋な疑問からではない。散々身を粉にして働いてきた実行委員が評価されないことに対する不満も含まれている。
仕事だから。責任があるから。投げ出すつもりはない。
けれどこんなに頑張っているのだから、少しくらい褒めてほしいものだ。
私が重いため息を吐いたのと誰かが会議室に入ってきたのはほとんど同時だった。
気配に振り向く。見覚えのある人物がドアの前に立っている。
目が合うなり踵を返そうとしたその人物を、私は立ち上がって呼び止めた。
「柳先輩!」
先輩が動きを止める。考えるような間があって、諦めたように振り向いた。
「……おつかれ」
「おつかれさまです。先輩、こっち来てください」
ちょいちょいと手招きをして呼び寄せれば、先輩は訝しみながらも会議室に入ってきてくれる。
私は机の上に投げ出してあった用紙の束から一枚引き抜く。どうせこんなに余ってるんだから、一枚くらい勝手に使っても許されるだろう。
ベストカメラマン賞。頑張ったで賞。
どれもしっくりこない。結局『金森深琴賞』と書き込んだ。
その他先輩の名前やら日付やらを記入して、出来上がった賞状を先輩に差し出す。
「はい。先輩にあげます」
「……なにこれ」
「先輩も今日一日たくさん頑張ってたから。……今日だけじゃないですね。いつもです」
先輩が賞状から目線を持ち上げる。ひどく驚いたように私の顔を見遣った。
「今日、どこに行ってもカメラを構えた先輩を見ました。記録係の仕事ですよね」
「……こ、声かければよかったのに」
「遠かったから」
「なんで気づけるのさ」
「気づきますよ、そりゃ。どこにいても先輩なら。あと写真部の展示も見ました。……あの、プールの裏手の写真とか。中庭の写真とか。一枚だけあった花のやつ、焼却炉の傍に咲いてるやつですよね?」
「……知ってるの」
「あは、やっぱり。先輩だと思った」
並んだ写真の中に、妙に心に残るものが何枚かあった。
早朝の澄んだ空気の中にそびえる校舎を切り取ったような一枚。写真越しにも伝わるような透明感に、先輩の瞳の色を見た。
一度意識してしまうと、残りは容易に探し出すことができた。
誰も気づかないような些細な風景や、先輩の瞳の翡翠をそのまま乗せたような空気感。
どうして先輩が私や相模を真摯に見つめてくれていたのか。
並んだ写真を見て、その理由に辿り着いたような気がした。
先輩の目には、世界があんな風に映っていたんだ。
先輩の世界は、あんなに透き通って美しいんだ。
そっと瞑目する。昨日、第一体育館で先輩が零した言葉を耳の奥でなぞる。
誰かといると自分の無価値さが浮き彫りになると告げた悲痛な声。けれど。
「先輩の世界は綺麗ですね。だからきっと、自分以外の優れた部分がよく見えるんだと思います。だけどそれってすごいことじゃないですか?」
私には人間の価値なんてわからない。ましてや、それが判断できるほど大層な人間でもない。
だからこれから語ることは私の主観でしかない。そうして、私が先輩に思うすべてでもある。
先輩は自分に価値がないと言った。けれどそれは、先輩の目には先輩は映らないからだ。
私から見える先輩は、まったく違うもののはず。
あの女の子が兎堂くんに恋をしたように。私も先輩や先輩の世界を、尊いものだと思う。
「私には人間の価値なんてわかりませんけど……なにかを美しいと思える心は、それだけで美しいものですよ」
微笑とともに告げる。先輩の白い喉が震えた。
「…………ああ」
呻くように声を漏らす。そうして痛みを堪えるように身を屈めたかと思えば、そのまま雪崩を起こすみたいに膝からその場に崩れ落ちた。片手で目元を覆って、背中を何度も震わせる。
「……やっばい。泣きそう」
顔を上げた先輩は大粒の涙で頬を濡らしていた。
「あの、」
「恥ずいな、見ないで」首ごと顔を逸らして、頭を振って再び向き直る。「嘘。オレのこと見てて」
翡翠の瞳からとめどなく涙が溢れては白い頬に筋を作る。海が溢れてるみたいだと思った。
洟をすすって、先輩は瞼を手の甲で乱暴に拭った。
目元を真っ赤に腫らして、潤んだ瞳で私を見上げる。
「ねえ、記念写真撮っていい?」
「……あ、じゃあ私撮りますよ。カメラの使い方だけ教えてもらえれば」
「じゃなくて、その賞状持ってる深琴ちゃんを撮りたいの」
「え? いや受賞したのは先輩」
「いいから」
強引に促されるまま賞状を胸の前で掲げた。
先輩が数歩下がってカメラを構える。
「笑って」と指示されて、戸惑いながらも笑みを浮かべてみせれば、先輩は満足気に頷いた。
「……はは」
レンズを覗いた先輩が、カメラを下ろして再度手の甲で瞼を擦る。
「全然見えないや」
大粒の涙を流しながら作ってみせた笑みは、平生の余裕たっぷりの笑みと比べたら全然下手くそだ。
けれど私は今の先輩が今まで見てきた中でいちばん美しいと思う。
だから一瞬たりとも見逃すことがないよう、彼の瞳をまっすぐに見つめ続けた。
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