第11話 もう一度恋からはじめましょう④

 三階まで上がり、PC室を覗く。

 鍵は開いていたが、中に人の姿はなかった。


 承認印を受けるのに手間取っているなら、まだ生徒会室にいるはずだ。

 廊下を走る最中にも、脳裏には相模の微笑がこびりついていた。


 早く戻らないと。


 自然と足が急かされる。


 廊下の角を曲がると、すぐに生徒会室の入口が見えた。

 PC室と同じように中を確認しようとドアの隙間から顔を出す。直後、反射的に身を引いた。


 狭い生徒会室の中には兎堂うどうくんと女子生徒がいる。


 なにかを話し込んでいるようだ。

 やけに深刻な顔をした兎堂くんと一瞬だけ目が合う。


「好きです。私と付き合ってください」


 生徒会室からか細く漏れたその声に、私は息を呑んだ。

 廊下の壁にぴっとりと背を預けて、聴覚を研ぎ澄ませる。


「ごめんなさい」


 兎堂くんはたった一言しか答えなかった。

 少しして、耳を塞ぎたくなるほど悲痛な嗚咽が響き出す。


 こっちに来る。

 足音で直感した。


 咄嗟に物影へと身を隠して、女子生徒が通り過ぎるのを待つ。冷たい風とともに一瞬にして気配が通り過ぎた。……見覚えがある。他クラスの実行委員の女の子だ。


 少し悩んでから生徒会室に入ることにした。

 どうせもう姿は見られている。今更隠しても無意味だ。


「……兎堂くん」


 引き出しを漁っていた兎堂くんが、私の呼びかけにゆるりと首を巡らせた。

 疲労の強く浮かんだ顔で、力の抜けた笑みを零す。


「遅くなってごめんね。迎えに来てくれたんだ」

「……うん」


 どうしよう、うまく声が出ない。

 自分で思っているよりもずっと動揺しているみたいだった。


 兎堂くんは淡々とチラシに判子を押す。

 判子についたインクをティッシュで拭って、ふにゃりと笑った。


「なら、一緒に行こっか」







 PC室のコピー機を操作しながら兎堂くんがふいに口を開いた。


「さっきの、見てたでしょ」

「……うん。ごめん」

「いいよ。タイミングの問題だもん」


 罪悪感から背中を丸める私を横目に盗み見て、兎堂くんは薄く笑みを浮かべる。

 その微笑から憔悴の気配を感じるのは、たぶん気のせいじゃない。


「誰かに想ってもらえるのはいいね。こんな自分にも価値があるように思える。それで──応えられない自分が、もっと嫌いになる」


 歌うような口調で、暗く沈んだ声でそう言った。


 瞠目して彼を見遣ると、兎堂くんはブラインドの開いた窓の向こうをぼんやりと見つめていた。


 既に陽は沈み、藍色の空に欠けた月がそこだけ切り抜いたみたいに白く浮かび上がっている。

 昼と夜が溶け合う境目を見上げる兎堂くんは虚ろな瞳をしていた。


「どういうこと」


 尋ねて、踏み込みすぎたと後悔する。

 ゆったりと首を巡らせた兎堂くんが、つっと目を細めて私に教えてくれる。


「おれは、恋はしない」


 息ができなかった。


 どこか疲れたような笑みと芯のある声。

 私の知る平生の彼とはかけ離れている。さっきまでとは別人と話しているのかとさえ錯覚した。


「誰かを愛する自由があるのなら、誰も愛さない自由も同様に認められるべきじゃない?」


 問いかけるような口調なのに、そこには突き放すような冷たさがあった。

 私はずっと、兎堂くんを勘違いしていた──否、はじめから理解しようなんてしていなかった。


 みんな当たり前に恋をして、誰かを愛することで生きていくものだと思い込んで、恋愛を人生の選択肢から外している人の存在を失念していた。


 ……自分だって、少し前までそちら側だったくせに。


 すべてが明らかになると、無性に恥ずかしくなる。

 同時に途方もない疲労が全身を襲った。

 結局私も相模もおかしな勘違いを加速させて、勝手に振り回されていただけだったのだ。


 眩暈を堪える私の傍らで、兎堂くんは窓の外に視線を戻して滔々と紡ぐ。


「気持ちを伝られることさえ苦しいんだ。おれはその気持ちには応えられないから。おんなじ好きを返せないから。おれになにも伝えないでほしいのに……どうしてみんな、伝えることをやめてくれないんだろう」


 兎堂くんの語り口は独り言のようにも聞こえた。


 問いかけ自体も私に向けられたものではない。

 おそらく先ほどの女子や、あるいはもっと広いもの。社会や世間一般の価値観といった実体を持たない概念に対して溢れてしまった、彼の慟哭の一部なのだと思う。


 だから私には答える義務も、回答者に相応しい地位もない。

 それでも口をついてしまったのは、まだ耳の奥に相模の声が残っていたから。


「……隠しておくことも、苦しいから」


 脳裏に相模の苦し気な面影が蘇る。

 悲痛に揺れる声で囁かれた「好き」という言葉が、鼓膜の奥でしつこく鳴り響いていた。


 兎堂くんは幽かに目を瞠ってから、「そうだね」と浅く首肯を返す。


「ならやっぱり、恋愛ってやつは結局のところ、エゴの押し付け合いなんだね」


 どちらかが一方に想いを強いて、どちらかが耐えることで成り立っている関係。互いの心を縛る関係。それは苦しいものだ。


 相模は、自分はもう私のものだと言った。相模の心は相模のもので、私は縛り付けるような真似はしたくないのに。


「おれは金森さんも、おれとおんなじだと思ってたんだけど。金森さんと相模くん、他のカップルとは違う感じがしたから」


 その言葉で、兎堂くんの距離感の近さに合点がいった。


 確かに私は一般的なカップルのように相模に甘えることもない。

 傍から見れば相模が一方的に私に執心しているように映るだろう。


 けれど。


「同じ……なのかな」

「違った?」

「……わかんない」


 私が相模と付き合っているのは、私の中に相模の想いに応えない理由がないからだ。

 それは積極的な好意に基づいて、互いに淡い想いを寄せ合って恋人になるのとはまったく質が異なる。


 相模と恋人という関係でありながら、未だ相模に恋をしていない私は、果たして兎堂くんと同質と言えるのだろうか。


「考えてみたらいいんじゃないかな。おれも金森さんも、想ってくれるひとがいる。おれはその気持ちには応えられないけど……金森さんはどうかな」


 私は相模の気持ちに応えて今の関係を選んだ。

 けれど兎堂くんの言葉は、それは逃げたも同然だと私に突きつけるのだった。


「金森さんは相模くんのことが好き?」


 私は相模を好きなのだろうか。


 自分に問いかけて、一瞬にして心臓が暴れ出す。


 相模に恋をしているかなんて、そんなこと考えたこともない。

 考えるまでもなくあり得ない事態だから。


 鬱陶しくて、やかましくて、危うくて目が離せない。私にとって相模はそういう存在だった。


 私がじっと黙りこくったのを受けて、兎堂くんはふっと力の抜けた笑みを零した。


「……金森さんとなら、もしかしたら片割れみたいになれるんじゃないかもなんて、ほんの少しだけ思ったこともあったんだ。だけどその様子じゃ違ったみたいだね」そっと手折るように呟く。「おれたち、おんなじにはなれないね」


 長い睫毛を静かに伏せて、真紅の瞳に深い影を落とす。

 すべてを諦めてしまったような横顔にかけるべき言葉を私は持たない。


 私と彼はまったく違うものだと気づいてしまったから。







「もう暗いから、金森さんは先に帰ってて。おつかれさま」


 兎堂くんは一人でチラシの束を抱えて現場に戻っていった。


 管理棟の階段は消灯されている。手すりを伝わないと足元も見えずにうまく降りられない。

 耳の奥で兎堂くんが残した言葉を何度も反芻しながら、一段一段踏みしめて階段を降りていく。


 踊り場に差し掛かると、窓から月の白い灯りが差し込む。四角い光の淵に誰かの背中が浮かび上がった。甘やかな髪色でそれが相模だと気づく。


 相模は深く項垂れたまままんじりともせずに、階段に腰かけていた。


 ……本当に、ずっとここで待っていたんだ。


「相模」


 踊り場から数段降りたところで呼びかける。


 弾かれたように相模が振り向いた。そうしてなにかを思う間もなく立ち上がる。


 気づいた時には、私は相模の肩口に顔を埋めていた。


 私の方が数段上に立っているせいで、いつもより相模の顔が近い。

 跳ねた毛先が私の首筋をくすぐる。

 相模は私の肩に口元を埋めて、なにも言わずに私を腕の中に抱え込んだ。


「い、痛い。痛いよ相模」


 背骨が折れてしまうのではないかと錯覚するほどの強い力。

 だけど裏腹に、縋り付くような弱々しさを感じた。


 ……このまま放っておいたら、どこかへ消えてしまいそう。


 一瞬そんな妄想が脳裏を過ぎってしまって、相模の背に手を回そうとした。

 そうして指先がシャツに触れる寸前で止まる。


 私には、彼を抱く資格がない。


 何も掴めないまま両手がだらんと垂れる。


 私はただ、相模の肩に鼻先を埋めた。

  

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