第11話 もう一度恋からはじめましょう③

 私が戻ってしばらくした頃には、買い出しに駆り出された相模も帰ってきた。


 暗くなる前に女子は帰宅させられている。残っているのは相模を含めた数人の男子と実行委員の私のみだ。


 第一体育館での先輩との会話から一時間ほど経った頃。

 調理室の窓から顔を出した男子が、そういえばと口を開いた。


兎堂うどういなくね?」

「兎堂くんならチラシのコピーに行ったけど……」


 明日配布するチラシが今日になってやっと完成した。兎堂くんは実行委員として生徒会の承認印をもらうついでにコピーを取りに行ったのだった。


 しかし彼が校舎内に消えてから、既にずいぶんと時間が経過している。


 ……何かトラブルにでも巻き込まれたのだろうか。


「私探してくるわ」


 どうせ現場で私がやるべき仕事はほとんど終わっている。少しくらい離れても問題ないだろう。

 私も昇降口から校舎内へ入った。


 靴を履き替えて渡り廊下を抜ける。管理棟に入ったところで、背後から誰かの控えめな足音がした。


「どこに行くの?」


 密やかな声だったが、森閑とした廊下にはよく響いた。

 恐ろしいほどに感情をそぎ落とした顔つきで相模が私を見つめていた。


「……兎堂くんのところ」


 それが相模の機嫌を損ねることを知りつつ、私はありのままに答えた。

 そこには、なぜ私が相模に憚らねばならないのだ、という子供じみた反発心があったのも否めない。


 けれど、想定に反して相模の反応は穏やかなものだった。


 じっと私を見つめる眼差しは凪いだまま、唇を引き結んで動かない。おかげで辺りには妙な静寂が満ちた。


 ふいに相模がそっと睫毛を伏せる。その仕草は感情を押し殺そうとしているようにも見えて、知らず、体の芯が震えた。


 ぺた、ぺた……足音が近づく。

 相模は私の目の前までやってくると、唇の端に薄い微笑を浮かべた。


「ダメだよ、金森さん。俺っていう彼氏がいるのに」

「……は?」


 口調も声音も、私を見下ろす目つきも、ぜんぶ穏やかなのに。どうして足が竦むの。


 切々と縋るような瞳の色に既視感を覚えて記憶の糸を手繰る。……そうだ、私が体調を崩した日に見たものとよく似ているのだ。


 似ているけど……なにかが違う。

 ただ私を見下ろす瞳の奥に、焼け付くような色を感じた。焦燥ではない、なにか。


 薄い唇が開かれる。それだけで得も言われぬ緊張感に支配された。


「彼女なんだから。彼氏だけ見てないと」

「私はあんたのものじゃないわ」

「俺はもう金森さんのものなのに?」


 降り注いだ声に言葉を失う。


 なによそれ。心はその人だけのものだって、あんた自分で言ったじゃない。


 私は相模を自分の所有物にしたつもりはないし、相模の所有物になったつもりもない。

 そんな関係は相模も望まないはずだ。そう信じていたのに。


「……ちゃんとあんたの気持ちに応えて付き合ってるじゃない。一体なにが不満なのよ」


 探るように問いかける。


「不満……」


 相模がうわ言のように呟いた。

 そうして子どもみたいにあどけない眼差しで、情けない声を漏らす。


「わかんない」

「わかんないって……」

「考えてみたんだ、色々。だけどどれもしっくりこなくて」

「ならあんたの意味不明な不機嫌に私を巻き込まないで。わからないまま八つ当たりされたって、私にはなにもできないじゃない。それともあんたは私になにをしてほしいわけ?」

「行かないでほしい」


 今度は即答だった。


「金森さんがいないと困る」

「……どうして」


 震える声で問うて、息を呑んだ。

 薄く膜を張った琥珀の瞳が私の胸をまっすぐに射抜く。


「好きだから」


 泣き笑いみたいな顔をして相模は掠れた声で囁いた。

 あまりにも儚い微笑に、呼吸すら忘れて見惚れる。


 私、こんな顔の相模、知らない。


 戯れに触れれば跡形もなく消え去ってしまいそうに儚くて、なのに誰かが支えてやらないと泣き崩れてしまいそうに情けない微笑。


 なにもかもを投げ捨てて、衝動のままに抱き留めてやりたい。


 ……けれど、今ここで相模に触れてしまえば、そのまま離れられなくなることは容易に想像できた。


 だから無理やりに唾を飲み下して、誤魔化せないほど強張った声で相模に告げる。


「ごめん相模。兎堂くんを探さないと」


 琥珀色の瞳に絶望が滲む。


「ちゃんと戻ってくるから、ここで待ってて」


 相模の瞳を正面から見据えて告げる。

 幽かに息を呑む気配がして、相模はぎこちない動作で首肯した。



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