第10話 嵐のはじまり④

 翌週、帰りのSHRショートホームルームで時間を作ってもらえることになった。


 次々と止まない挙手を兎堂うどうくんが捌きつつ進行する。彼より背の高い私は板書係だ。


 私が『かき氷』と書ききったところで、誰かが「はい!」と威勢よく手を上げた。


「自主映画やろうぜ」


 男子生徒の提案に対する教室の反応はあまり芳しいものではなかった。しかしそれも一瞬のことで、付け足された一言で空気が一変する。


「相模と金森さんメインでさ、恋愛モノ。どう?」

「は?」


 明らかに揶揄いを含んだ言葉。

 憮然とした顔つきで黒板を睨んでいた相模が、私と同時に声を上げた。


 そうして私たちの声を掻き消すように、教室中からわっと歓声が沸き起こる。


「いいねいいねえ」「えー絶対面白いじゃん」「やばっ恥ずすぎるでしょ」「え、別にあの二人ならよくない?」もはや判別もつかないほどにあちこちから飛び交う声。それが教室の真ん中でぐちゃぐちゃに乱れる。


 嘲りと揶揄いに満ちた無責任な言葉たちが、みるみるうちに私の視界を赤く染め上げていった。


 手の内でチョークが砕ける。


 強い怒りが全身を満たしていく。沸点に到達する直前、その声は凛と確かな響きをもって教室中に響き渡った。


「無理だよ」


 兎堂くんはしゃんと背筋を伸ばし、平生の凪いだ声音で毅然と言い放った。


「おれと金森さんは実行委員で忙しいから、ほとんど参加できないよ。もしやるなら他のキャストを探してもらうことになるけど……どうする?」


 兎堂くんの眼差しは発案者である男子生徒へと一直線に注がれていた。


 教室中が水を打ったように静まり返る。逸らすことの許されない鋭利な視線を一身に浴びせられて、問われた男子がわかりやすくたじろぐ。

 何度も言葉を詰まらせて、結局声を発することもできずに首を横に振った。


「じゃあ、ほかにやりたいこと探してみよっか」


 兎堂くんがにっこり笑いかけると、場の空気が弛緩する。

 そこには数分前まで満ちていたおふざけ交じりのだらしない空気感ではなく、不思議な緊張感があった。


 こうして兎堂くんの働きのおかげもあり、会議はつつがなく終了したのだった。







「さっきはありがとう」


 SHRショートホームルームが解散となってから、私はすぐに兎堂くんにお礼を伝えた。


「やー、もう少し遅かったら暴れ出してたわ」


 私の軽口に、兎堂くんは薄い笑みを浮かべる。

 それは平生の可憐な微笑とよく似ているのに、細められた瞳にはいたく真剣な色が浮かんでいた。私は無理やり浮かべていた軽薄な笑みをすぐに打ち消した。


「嫌だよね、ああいうの」


 囁くように落とされた言葉に、私はただ静かに、深く頷く。


「……うん。本当に」


 どうしてみんな、誰かを嘲笑うことに躊躇いがないのだろう。

 恋愛は素晴らしいと説く、誰かに愛を囁くその口で、どうして他の誰かが想い合う様を嘲り、面白おかしく消費し、搔き乱してしまえるのか。


 考えたら怒りも絶望も悲しみも、虚しさも、綯い交ぜの感情が込み上げて吐き気がする。

 喉元までせり上がった不快感を大きなため息とともに吐き出して、声を張り上げる。


「あーーーマジで腹立つ! だから嫌なのよ、恋とか愛とか。私が誰と付き合おうが一人でいようが、んなこと私の勝手でしょーが。あんたらにいちいち口出しされることじゃないっつーの!」


 既に大半の生徒が去っているため、教室内には数人しか残っていない。ほぼ全員がぎょっと私を見遣ったが、んなこと知るか。


 腹の底に蟠ったものをぶちまけたおかげで、いくらか気分が軽くなったような気がする。

 一度大きく息を吐き出してふと隣を見る。兎堂くんは黒板消しを握る手を止めて、真紅の瞳を見開いたまま私を見つめていた。


「……兎堂くん?」


 私がその顔を覗き込むと、兎堂くんははっと息を呑んで浅く唇を嚙み締めた。

 そうして長い睫毛を震わせて、私に熱っぽい視線を向ける。


「うん、そう……そうなんだよ……!」

「う、うん……?」


 何度も首を縦に振る兎堂くんの声音はやけに嬉しそうだ。

 興奮したように頬をほんのり蒸気させて、花開くような笑みを浮かべた。


「えへ。金森さんならわかってくれるって思ってたよ」

「なにを?」


 尋ねたのは私ではなく相模だ。

 また当然のように会話に入ってくる……。


 呆れ返る私の傍らで相模が教卓にだらしなくもたれかかる。そうして心底うんざりしたように大きなため息を吐いた。


「さっきの、マジでムカつく。金森さん顔やばかったもんね」

「あんただって殺意漲らせてたじゃない」

「金森さんほどじゃないよ。いつ暴れ出すんだろうってひやひやしてたんだから」

「相模くんのせいだよ」


 私も相模も、同時にぎょっと兎堂くんを見遣る。


 兎堂くんは黒板消しを置き、軽く手を払ってから振り向いた。

 唇は緩やかに弧を描いているのに、真紅の瞳の奥がいやに冷たい。SHRショートホームルーム中に男子に向けていたものとそっくりな目つきだった。


「相模くんがみんなに言いふらすからこうなったんだよ」

「は……?」

「一学期、金森さんと付き合ってるって色んな人に嘘吐いてたの、相模くんだよね」

「い、今は付き合ってるし」

「付き合わせたの間違いじゃなくて?」


 こてんと首を傾げた仕草は可愛らしいのに、眼差しには射抜くような鋭さがある。

 抑揚を抑えた声音は、私のよく知る小動物然とした平生の彼とはかけ離れている。獲物を追い詰める捕食者のようにも感じられた。


「おれ一学期に聞いちゃったんだよ。金森さんが相模くんと付き合ってないって言ってるの。金森さん嫌がってたのに、無理やり付き合わせたんでしょう? 本当に好きなら相手の嫌がることなんてしないはずだけど」


 と、そこで言葉を区切って、おもむろに私の袖を引いた。


「じゃあ、おれたち委員会行かなきゃだから。着いて来ないでね」


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