第10話 嵐のはじまり②

 SHRショートホームルーム直後の三年のフロアは人で溢れていた。


 三年一組のドアは開放されている。隙間から中を覗けばその姿は容易に発見できた。座席が変わっていなくてよかった。


「やーなぎせーんぱーい」


 廊下から呼びかけると、教室に残っていた生徒が一斉にこちらを見遣る。その中にやなぎ楓馬ふうま先輩の顔もあった。


 先輩が私に気づいて、一瞬目を丸くする。それからなにか唇が動いたような気がしたが、その声は女子生徒の歓声に掻き消されてしまった。


「相模くんだあっ」


 見覚えのある顔が続々とドアの周辺に集まってくる。

 

 三年女子に取り囲まれて圧倒される。相模は胡散臭い笑みを浮かべてその勢いを受け止めた。……なんか前も見たなこれ。


「なになに、柳に会いに来たの?」

「ええ」

「柳ぃーっ、相模くんが柳に会いに来たって!」

「や、あの、用があるのは私で……」


 困り果てていると、柳先輩が大きなため息とともに立ち上がった。気怠げな足取りでこちらまで歩んでくる。そうしていつか見たように、野次馬をしっしと手でぞんざいに追い払った。


「後輩を困らせるな。……で、深琴ちゃんどうしたの」

「これを」


 私が差し出した紙袋を見下ろして、先輩がきょとんと首を捻る。


「お借りしていたパーカーです。遅くなってすみません」と中を開いて見せれば、柳先輩は得心がいったというように「あーね、それね、なるほどね」とぞんざいに頷いた。三段活用……?


 紙袋を見下ろす先輩の表情は心なしか強張って見えた。訝しむようにその顔を覗き込む。先輩はようやく思い出したかのようににっこり笑って見せた。


 私がその違和感の正体に思い至るよりも早く、「ちょっと待って」とやけに張りつめた声で相模が会話を遮る。


「借りてたってなに」

「夏休み中に偶然会ってね。そのときにパーカー貸して、オレも深琴ちゃんにゴム借りたんだっけ」

「は? 俺にはなんか貸してくれないの?」

「貸すもんないだろ……」

「ていうか待って。先輩のパーカーを金森さんが着たっていうの?」

「そりゃそうでしょ」


 柳先輩が呆れたように返す。相模はくわっと目を見開いて、先輩の手に渡るはずだった紙袋を奪い取った。


「なにそれ彼シャツ、いや彼パーカーじゃん! は!? 彼じゃないですけど!?」

「なに一人で盛り上がってんのよ」

「許せない」


 おもむろに紙袋へ手を突っ込む。そうして無造作にパーカーを引きずり出し、流れるような動作で制服の上から袖を通した。


「ちょっと待ってなにしてんのよ」

「上書き」


 むすっとした顔でパーカーの匂いを嗅ぐ相模。

 洗濯してあるから柔軟剤の匂いしかしないぞ。無言で状況を見守っている先輩を見上げる。


「いいんですか」


 尋ねると、彼は驚愕に目を見開きながら、震える声でこう言った。


「嘘でしょ、相模が俺のパーカー着てる……」


 おい。

 どうやら憎き後輩が自分の服に袖を通していることに感動しているようだった。……この人、相模に対する感情を拗らせすぎてる気がする。絶対もう憎くないだろ。大好きだろ、相模のこと。


 すると憮然とした顔のまま、相模が衝撃の提案をする。


「もうこれ俺がもらってもいいですか?」

「駄目でしょ……」


 さすがにそれは。と思って先輩を見上げると、なぜか口元をにやけさせていた。


「い、いいよ、あげるよ。大事にしろよ」

「マジで?」

「あざっす」


 相模がまったく気持ちのこもっていない感謝の言葉を口にする。にやつきを隠し切れない先輩が私だけに聞こえる声でこっそり呟いた。


「後輩に服ねだられるっていいね。なんかジャニーズみたいで」


 知らんがな。


「俺の服を欲しがるなんて、えへ、可愛いところもあんじゃん」


 絆されないで、柳先輩。こいつ影であなたのこと「ヤナパイ」とか呼んでますよ。


 すっかり満足したのか、相模が脱ぎ捨てたパーカーを適当に丸めて袋に詰める。

 お前! 先輩のパーカーを大事にしろよ!


「今度からこういうの、やめてくださいね」顔を上げた相模が、突きつけるように不敵な笑みで柳先輩を見下ろした。「金森さんは俺の彼女なので」


 瞬間、柳先輩の瞳からすうーっと温度が失われていく。


 賑やかな空気が一瞬で掻き消え、重く苦々しい空気が取って代わった。

 いつもならここから二人のじゃれ合いが始まるはずだった。

 今はその気配すらない。相模がきょとんと目を丸める。


 先輩が短く漏らした吐息はため息にも似ていた。

 言葉を探すように視線を彷徨わせて、「あー……」と曖昧な声を漏らす。


「オレこの後用事あるんだよね。もう行かないと」


 明らかに鼻白んだ様子でそう言った。

 訝しむような私たちの眼差しに「文化祭の実行委員会があってさ」と殊更明るい声音で付け足す。

 ……なんだ。先輩もか。


 荷物を取りに戻ろうと体を翻した先輩の背中に呼びかける。


「私も実行委員なんです。よかったら一緒に行きませんか?」


 半身で振り向いた先輩はしばし逡巡すると、やがて諦めたようにゆるく首肯するのだった。


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