第9話 姉弟④

 少し歩いて、自宅の塀が見えた。


 先に先輩を庭まで案内して、私は一人玄関から家に入る。

 リビングでは湊が原稿用紙を前に渋い顔で唸っていた。


「湊。花火買ってきたよ」


 入口のあたりから声をかけると、湊はぱっと顔を上げて花咲くような笑みを浮かべた。


「花火!」

「うん。お姉ちゃんの先輩が買ってくれたの」

「せんぱい?」

「んー。お姉ちゃんの知り合いのお兄さん、かな。三人で一緒にやろう?」

「やる!」


 奢ってもらったアイスを冷凍庫にしまってから、「先輩がお庭で待ってるから、一緒に行こっか」と湊の背を押して玄関に誘導する。

 

 リビングの窓を開けると、しゃがみこんだ柳先輩が花火のビニールを開封しているのが見える。


「先輩」

「弟くん来るって?」

「はい。今そっちから……ああ、来ました」


 玄関の方から湊が元気よく駆けてくる。先輩はゆったりとした動作で立ち上がると、「はじめまして」と丁寧に腰を降りながら湊を迎える。


「かなもりみなとです。お姉ちゃんの弟です」

「ははっ」


 お決まりの挨拶を口にした湊の頭を柳先輩がぐりぐり撫でまわす。


「先輩、これで火つけてください」


 リビングに来るまでに拾ったライターを先輩に手渡して一度網戸を締めた。

 そうして三人分の麦茶を用意して庭へ出た時には、既に二人は両手に持った花火を振り回してはしゃいでいた。

 え、打ち解けるの早くない……?


「なに小学生みたいなはしゃぎ方してるんですか先輩」

「いいじゃん。三人で使い切るなら豪快にいかないと、ね」


 ぱちんとお手本のようなウインクをされてしまえば、もう呆れてため息を吐くくらいしかできない。私はお小言の代わりに「麦茶そこに置いときますから」と告げて、窓辺にお盆を置いた。

 ついでに。


「はい」

「……ん、なに?」

「ゴムです。一応使ってください」


 必要ないかとも思ったけど、先ほどのはしゃぎっぷりを見ていたら不安に襲われて、結局渡すことにした。

 手首につけておいた二本のヘアゴムのうち一本を先輩に、残りを自分の髪を括るのに使う。


「あーね。ありがと」

「ふうましっぽついてる!」


 火の消えた花火をバケツの水に突っ込んだ湊が、びしい! と柳先輩を鋭く指さした。


「ふうま? お友達?」

「君の先輩だよ。ていうか指さしてるんだからわかるじゃん、普通」

「やっべー……完全に忘れてた」

「うんダダ洩れだね。別に怒らないけどさ」


 そういえばこの人の下の名前って楓馬だっけ。

 

 気を悪くした様子もなく、柳先輩は手持ち花火を目の前に差し出してきた。


「はい。深琴ちゃんも遠慮なくどうぞ。てかマジで大量にあるから、なるべく早く消費してほしい」

「なんでこんな大きいの買ったんですか」

「いやちょうどいいサイズ無くてさ……」


 苦み走った笑みで頬を掻いていた柳先輩が、ふと庭の中心ではしゃぐ湊に目を遣った。

 すっと目を細めて、懐かしむような、歌うような口調で語り出す。


「昔さ、姉さんたちと花火やったんだよね」


 その声には平生のような怯えは含まれていない。子守歌でも歌ってるみたいに凪いだ声だった。


「オレが落ち込んでた時、急に部屋に乗り込んできて『花火やるぞ!』って。全然そんな気分じゃなかったのに、無理やり付き合わされてるうちに楽しくなってきて。気づいたらなにに落ち込んでたのかも忘れてた」


 首を巡らせて私を見つめた先輩の眼差しは柔らかかった。


「お姉さんなんて、案外そのくらい適当でもいいのかもね」


 言って、照れくさそうにはにかむ。

 翡翠の瞳にまっすぐ見つめられて、相模に目が好きだと告げられた日のことを思い出していた。


 ……なんて綺麗な目。どうしてこの人はこんな真摯に私たちを見つめてくれるのだろう。

 考えたら無性に苦しくなった。





 結局一袋分の花火を使い切るには一時間ほどかかって、終わった頃にスマホを覗いた柳先輩が真っ青になって震えていた。


「ふうまもお兄ちゃんになっちゃえばいいのに」


 ゴミを集めていた湊がふいにそんなことを口にした。私と先輩は同時に振り返る。

 互いに様子を窺うように顔を見合い、やがて先輩が躊躇いがちに口を開いた。


「……オレは、別に構わないけど」


 なんで乗り気なんだよ。

 てっきり笑って誤魔化すものだと思っていたため、予想外の返答に私までパニックに陥ってしまう。


 散々悩んだ挙句、


「えっと、……相模じゃだめ?」


 どうしてそんな言葉が口をついたのか、自分でも理解が追い付かなかった。


 現実的に考えて湊と深い関係になるなら、現在私と交際している相模の方が可能性が高い。しかし、そんなのは所詮後付けの理由に過ぎない。私の脳裏はすっかりミルクティー色に支配されていたのだ。


「オレそろそろ帰るね」


 きょとんと首を捻った湊の代わりに先輩がそう言って会話を切り上げた。

 窓辺に投げてあったコンビニの袋を拾って踵を返す。不自然なくらい足早に庭を出た先輩の背を数秒遅れて追いかける。


 私が庭を出たときには先輩の姿は既に離れていて、薄い体の輪郭が頼りない街灯の光を浴びてぼんやりと浮かび上がっていた。


「先輩!」


 私が呼びかけて、先輩は街灯の下で一度足を止めた。そうして緩慢な動作で振り返る。

 青白い灯りが先輩の顔に深い影を刻む。おかげで表情が読み取れず、私は探りながら言葉を舌に乗せた。


「……あの」数舜躊躇って、唾を飲み下す。「私、相模と付き合うことになりました。だから先輩とは共犯になれません。相模のこと、嫌いじゃないんです」


 先輩の唇が幽かに戦慄く。どんな音を形作るのかじっと待ってみても、深い沈黙が落ちるばかりで一向に先輩がなにかを告げる様子はない。


 ただ佇んでいると、全身をじわりじわりと闇に侵されていくような不安に襲われた。

 なにか言葉を紡がないと。


 衝動に駆られたまさにその時、じゃり、と砂を踏みしめるような音が鮮やかに鼓膜を揺らす。先輩が踵を引いた音だった。


「そっか。うん、わかった」


 短く答えて、静かに長い睫毛を伏せる。

 翡翠の瞳に深い陰が落ちた。そうしてそのまま踵を返して歩き出してしまう。


 先輩の小さな背中が闇に溶け込んでいくのを見送る。

 私はなにかを間違えたのかもしれないという漠然とした不安が胸に広がった。

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