第9話 姉弟③

 時折自動車とすれ違うたび、吹き抜ける風がビニール袋をがさがさと鳴らしていく。


 灯りの少ない道では見渡す限り闇ばかりが広がり、その存在を確かめるように何度も先輩の横顔を見上げた。


 ふと、翡翠の瞳が滑って私の視線とぶつかる。


「なに見てたの」

「……いえ」

「言ってよ、別に怒らないから」

「ワンパンで倒れそうな細さだなって」

「思ってたよりも失礼だったな……」


 暗闇に浮かび上がる柳先輩の体つきは細く、肌の白さも相まってか頼りなく見える。

 男性にしては長い髪と恐ろしく端正な顔立ちでは、女性二人が並んでいると捉えられても仕方がないのではないか。


 ……とはいえ、やはり一人で帰るよりは心強い。


「送ってくださってありがとうございます」

「いいえ。これで迎えも来られるじゃん。むしろ役得だよ」

「相模と同じこと言ってますよ」

「え。あいつってわざわざこっちまで迎え来てんの?」


 先輩の声にただならぬ驚愕が含まれているように感じて胡乱な眼差しを向ける。


「あ、いやほら、相模ん家結構遠いじゃん」

「そうなんですか?」

「え、もしかして知らなかった? あいつ西中だから深琴ちゃんとは家逆方向になるんじゃないかな」


 相模の出身中学まで把握しているなんて、さすが相模拗らせオタク柳先輩。安定にキモいぞ!


 謎に感心しつつ、私ははてと首を捻った。


 西中なら、うちの高校よりも隣の市の高校の方が近いはず。自転車で通学できる範囲内だと思っていた。なぜ電車通学にしなかったのだろう。


 妙な引っかかりを覚えて考え込むと、二人の間には長い沈黙が落ちた。


 住宅街に入るとすっかり人通りは減り、ぽつりぽつりと青白い街灯が頼りなくアスファルトを照らしている。

 朧げなスポットライトをいくつかくぐった頃、ふいに柳先輩が笑みを漏らしたことで思考の底に沈んでいた意識が浮上した。


「こうしてるとオレたち兄妹みたいだね」


 一瞬首を捻って、髪型のことかと納得する。確かにこうしてみると、私たちの髪はほとんど同じ長さだ。これで髪色まで同じだったらもっと似ていたのに。


「柳先輩が弟になるなんて想像したくもないですよ」

「なんでナチュラルにオレが弟になってるの? 深琴ちゃんが妹に決まってるからね」

「もう一人姉が欲しいのかなって……」

「絶対やめて!!」

「先輩、お姉さんからの風よけが欲しいだけでしょ」


 嘆息交じりに指摘すれば、案の定先輩は声を詰まらせた。

 居心地悪そうに目を逸らした先輩に、ふと胸のうちに浮かんだ疑問をぶつける。


「先輩は卒業したら家出るんですか?」


 三年の夏ともなれば、進路もある程度決まっている頃だろう。

 進学にしろ就職にしろ、お姉さんの脅威から逃れる絶好のチャンスのはずだ。


「一応そのつもり。第一志望に受かれば上京して一人暮らしかな」

「へえ……」

「オレと会えなくなるの寂しい?」


 小首を傾げて悪戯っぽく問うてくる。私は肩を竦めて平静に答えた。


「いえ別に。そもそも今でさえそんなに会ってないですし」

「うわ可愛くない。てか深琴ちゃんも卒業したら来ればいいじゃん」

「……無理ですよ」


 吐き捨てるように呟いた。顔を伏せて柳先輩の胡乱な眼差しから逃れる。


「うち今祖母と弟しかいないので。私が弟の傍にいてやらないと」


 視界の外で先輩が短く吐息を零す。

 探るような間を置いて、先輩が躊躇いがちに言葉を紡いだ。


「弟さん、今いくつ?」

「小二です」

「そっか。それは……大変、だよね」


 労わるような声音が胸の内をじくじくと蝕んでいく。


「苦じゃないですよ。姉弟ですから」唇の端を持ち上げて、柳先輩を見上げる。「大好きな弟のためにできることは、なんでもしてあげたいじゃないですか」


 先輩が静かに息を呑んだ。深い闇の中でターコイズを嵌め込んだような瞳が煌めく。


 私は視線を滑らせて、はるか遠くに広がる夜空を見上げた。

 ひと際明るい星だけが点を打ったように小さく輝いて見える。


「私のぜんぶをあの子にあげたい」


 歌うように口にしたそれは、舌に乗せたとたんに胸いっぱいにじんわりと確かな温もりを滲ませた。


 私は湊を愛している。それは確たる事実のはずだ。しかし時折、陽炎のように揺らめいて私の心を搔き乱す瞬間がある。

 七月のはじめに、白紙の進路調査票を目にしてから。


「……それは、深琴ちゃんがお姉さんだから?」


 掠れた声で問うた先輩を半身で振り返り、私はそっと微笑みかけた。


「私が私でいられるのは、あの子のおかげだから」


 私をこちら側へ繋ぎ止めてくれていたのは、私を清く正しい人間でいさせてくれたのは、いつだってあの子の存在があったからだ。湊がいなかったら、私はとっくに一人ぼっちになっていた。


 両親の離婚が決まり、すぐに大きな決断を迫られた。

 擦り切れて不安定な母と、そんな母と過ごすことに疲弊してしまった父。

 選べるはずがなかった。私には何かを見捨てる覚悟なんてなくて、大切な人を切り捨ててしまう自分を許せなくて。


 だから私は湊を選んだ。

 湊を選ぶことで、己の醜い部分から目を逸らした。


 白紙の進路調査票は、そんな風に避け続けていた現実を私に突きつけてきたのだ。

 自分の将来を決めようという場面で、必ず湊の面影が脳裏を過ぎる。


 大切に思うのと同じくらい苦しくなった。


 あの子を利用した自分が許せない。

 私が私の思い描く未来を掴めない理由を、ほんの一瞬でもあの子に求めてしまった自分が許せない。


 足音が途絶えて振り返る。

 私の数歩後ろで柳先輩が呆然と立ち尽くしていた。


「……いいなあ」


 眩しそうに目を細めて、虚ろな声で呟く。


「深琴ちゃんが、オレの……」


 歪に途切れた言葉が真夏の生ぬるい空気に溶けていく。

 それは素肌から私の全身に浸透して、複雑に絡んだ心の糸をぬるま湯につけたみたいに解していった。


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