第8話 あなただから④

 私たちが保健室の入口に差し掛かったちょうどそのときだった。


杏南あんなぁあぁぁあッ!」


 体の芯からびりびり震えるような怒声が、管理棟一階の廊下に響き渡る。

 温厚な彼が発する、腹の底から響く声というものを私が耳にするのは、これが二度目だった。


「そこで待ってろ!」


 強い焦燥の滲んだ声で付け加えて、職員玄関から聖山ひじりやまくんが廊下へ飛び出してきた。そのまま韋駄天も斯くやという勢いでこちらへ一直線に駆けてくる。


 私たちは相模に引き寄せられるようにして保健室のドアにへばりつき、聖山くんに道を譲る。鬼のような必死の形相をした聖山くんが、こちらを一瞥もせずに昇降口へ向かい目の前を通り過ぎていった。


 なにが起こってるの。外に杏南ちゃんがいるのだろうか。

 くい、と相模に手首を軽く引かれる。


「こっち」


 耳元で短く囁いて、相模が私の手を引く。引きずられるようにして二階へと階段を駆け上がる。

 そのまま勢いで一直線に伸びる廊下の中腹まで進むと、おもむろに窓を開けて身を乗り出した。

 私も相模に倣い、空いたスペースに身を乗り出して階下を見下ろす。


 駐輪場の傍らに、一人の小柄な少女の影が見えた。杏南ちゃんだ。

 明らかに戸惑った様子で周囲を見回しながら、ぎゅうっとリュックの肩ひもを握りしめている。そこへ昇降口の方から誰かが駆け足でやってくる。言うまでもなく聖山くんだ。


 わざわざ靴を取りに下駄箱を経由したのか、校舎をぐるりと回って駐輪場へと走ってきた。融通の利かない生真面目さは彼らしいと、私は知らず口の端に笑みを浮かべていた。


 聖山くんは杏南ちゃんの目の前までやってくると、荒い呼吸を整えようと膝に手をつく。その肩に杏南ちゃんが躊躇いがちに手を伸ばす。


「りょ、亮ちゃん大丈夫」


 校舎の壁に反響して、二人の声が私たちの所まで届く。

 恐る恐る肩に触れようとした杏南ちゃんの小さな手を、聖山くんが乱暴に掴み上げた。そうして乱れた呼吸の隙間で途切れ途切れに言い募る。


「ひっ!」

「あ杏南こそッ、怪我は!? 誰かになにっか、はッ、なにかされてないか!? げほっ」

「う、うん平気……あの亮ちゃんこそ」

「心配したじゃないか!」


 上ずった叫び声が鼓膜を強く揺らす。傍観しているだけの私でさえもその気迫に肩を跳ねさせた。


「家にも帰らず、学校にも来ないで……僕はなにか、不審者にでも襲われたんじゃないかって」

「ごめんなさい……」

「圭は圭で探そうともしないし、なにも聞いてないっておかしいだろ、兄妹なのに」

「あのねっ、あたしがママにお願いしたの! お兄ちゃんには言わないでって。だからお兄ちゃんは悪くないの……」

「なんでそんなことを……あ」


 言いながら自分が原因だと気づいたようだ。気まずそうに言葉を途切れさせて、ゆるゆると力なく首を振った。


「僕のせいだな、うん……」

「あの、亮ちゃん……」

「圭のせいじゃない。杏南のせいでもない、僕のせいだ」


 掴んだままだった杏南ちゃんの手を放して、だらんと脱力したように腕を垂らした。


「ごめん、杏南」

「……もういいよ、聞きたくないし」

「僕が悪いのに、圭のせいにしたんだ。圭がなにを思うかなんて、わかりきってたのに……ずっと隣にいたのに」

「……そうだよ。ずっと隣にいたの。だから亮ちゃんがあたしのこと恋愛対象として見てないってわかってたよ。なのに気持ち押し付けて、逆ギレして……あたし最悪だね、ごめん。もう会わないようにするから」

「嫌だ」


 聖山くんの澄んだ瞳がまっすぐに杏南ちゃんを貫いた。


「杏南と会えなくなるなんて嫌だ」

「……ぇ、えと」

「朝登校時間が被ったら一緒に学校まで来たいし、帰りも家まで送りたい。休日は昔みたいに圭と三人で遊びたいし、お互いの家でお菓子食べながらゲームして、くだらない話で時間潰したい。春になったら家族で花見をして、夏は杏南の家の庭で花火をしよう。秋は温泉旅行に行って、冬は一緒のこたつで課題を片付けよう。全部変わらないままがいい」


 怒涛の勢いで浴びせられて、杏南ちゃんはすっかりキャパオーバーのようだ。ぐるぐると混乱したように目を回している。熱中症で倒れる寸前のように真っ赤な顔で、立っているのもやっとの様子だ。

 それでも、聖山くんは止まらない。


「杏南に幸せになってほしい」

「あう」

「杏南に言い寄る男はひとりひとり僕が全部審査して、杏南を幸せにする資格があるのか見極めてやりたい」

「激重……」

「でも、」


 そこで一度言葉を区切った。言葉を探すように顔を伏せて、アスファルトの上で視線を滑らせる。ぐっと唾を飲み下して、焦がれるような眼差しでまっすぐに杏南ちゃんを見据えた。


「でもどうせなら、僕が杏南を幸せにしてやりたい」


 杏南ちゃんが息を呑む。


「まだ杏南のことをどんな風に好きなのかわからないけど、どこの馬の骨とも知れない男に杏南を任せるくらいなら、僕が杏南と一緒にいる方がマシだ」

「へえっ!? そ、それってあたしのこと好きってことじゃないの……?」杏南ちゃんが真っ赤な顔でびくっと肩を跳ねさせたが、聖山くんは渋い顔で首を横に振る。「いや、それはまだわからないんだけど……」

「なんでよぉ! 好きでいいじゃない! ほんと亮ちゃんってそういうところ……!」

「でも、それでもよければ。付き合ってください」


 ぽかぽかと聖山くんの胸を拳で叩いていた杏南ちゃんの動きがぴたりと止む。

 涙を堪えるみたいに目を伏せて、熱っぽい声で絞り出すように呟いた。


「……ダメなわけない。あたしはずっと、そういう亮ちゃんが好きなの。昔から変わらないの」


 ローファーの爪先で一歩踏み出すと、ぎゅう、と聖山くんの背に腕を回し、きつく抱きしめた。擦りつけるようにシャツの胸元に頬を寄せてうっとりと呟く。


「亮ちゃん大好き。早くあたしのこと好きって気づいて」

「……善処します」


 棒立ちのまま快晴の空を見上げて聖山くんが苦々しく答えた。

 階下で繰り広げられる光景をじっと見届けて、ふいに隣の相模が柔らかく問う。


「……それ、どういう顔」

「ん」

「幸せのお裾分けじゃないの」


 窓の外を吹き抜ける七月の生ぬるい風に乗って、相模の声が優しく鼓膜を揺らす。

 風に掬われた髪がふわりと舞い上がって、毛先が頬をくすぐった。煩わしさに目を細めて、目の前を揺蕩う髪の束を耳にかける。


「……わからないの。恋人って、お互いが好きだからなるものだと思ってた。だけど聖山くんは杏南ちゃんのことが好きかわからないのに付き合うんでしょう?」

「なにもおかしなことじゃないよ。お試しっていうかさ。カップルがみんな相思相愛とは限らないよ」

「そういうものなの?」

「そういうものだよ」


 きょとんと問いかければ、相模は心得顔で頷いてみせた。

 私は遠く広がる田舎の景色に視線を戻して、相模に知られないようひっそりと短く息を吐き出した。


 眩しいくらいの晴天の下、忙しない蝉の合唱が響いている。生ぬるく吹き抜ける風はけして気持ちのいいものではないのに、不思議と凝り固まった心がゆっくりと溶けていくような心地に陥る。


「……困ったわ」


 口の中だけで呟くようにそう零せば、聞き取れなかった相模が私の顔を覗き込んでくる。


「ん?」

「いや」

「……ふうん。ま、そういうことだからさ、金森さんが俺と付き合うのだって、別におかしなことじゃないんだよ」

「じゃあ付き合う?」


 あっけらかんと言い放つと、相模は「え」と低く零した。鳩が豆鉄砲を食ったような顔のまま石にでもなったみたいに固まって、唖然と私を見つめている。


「私の中に、相模の気持ちに応えない理由がないことに気づいた」


 風に吹かれて相模の柔らかそうな髪が揺れている。大きく見開かれた琥珀色の瞳が宝石みたいに輝いて、その眩しさに目を細めた。

 このまま間抜け面を眺めていてもよかったけど、次の授業に移動しなければならない時間が迫っていたので急かすように口を開いた。


「で、どうすんのよ。付き合うの?」


 ようやく意識を取り戻した相模が、目を白黒させながら首を捻った。


「……あ、じゃあ、はい。よろしくお願いします……?」

「ん」


 頷いて、窓から体を引っ込める。

 相模は相変わらず状況をうまく呑み込めてないみたいな顔で窓辺に寄りかかったまま呆然としていた。

 窓閉めたいから、いい加減どいてほしいんだけど。


「なによ」

「え、いやなんか、思ってたのと違うなって……え? これマジ? 全然想像と違う……ええ…………」


 最後は若干引いたみたいな声を漏らして、やっと窓辺から体を離した。


 口元を覆って、うーんと難しい顔で何やら考え込んでしまう。私はその無駄にでかい図体を「邪魔」と一言で追い払って、窓枠に手を伸ばした。


 雲一つない青霄が私たちを見下ろしている。教室を出たときからブレザーを羽織ったままだったので、いい加減シャツの下に汗が滲んできた。

 ……もういらないな。


 丁寧に鍵まで閉めると、途端にむわっと熱を孕んだ空気が辺りに満ちた。私はブレザーの襟元に手をかけて、袖から腕を抜き取る。

 肩回りが軽い。

 脱いだブレザーを片手に抱えて、しかめっ面で立ち尽くす相模の背をぱんと叩いた。


「ほら、行くわよ」


 二人きりの廊下を連れ立って歩きながら、ちらりと窓の外を横目で見遣った。

 硝子越しに覗くのは、眩しいくらいの青。


 去年までとは違う、新しい夏がやってきた。

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