第8話 あなただから③
大袈裟だよとむず痒そうに呟く相模の手を引いて、保健室へ向かう。念のために氷嚢をもらおうと提案したのだが、相模はやんわりとそれを拒否した。
「でも腫れてるじゃない」
「少しだけね。放っておけば治るよ」
「……私の頭突きのときは大騒ぎしたくせに、よく言うわ」
「威力が違うから、威力が」
「二回言うな」
肘と額だったら肘の方が痛いに決まってるだろ。
無理やりに手を引いて歩く。気だるげな歩調と裏腹に相模の顔はまんざらでもなさそうに緩んでいる。
「……ね、さっきのもう一回言って?」
「なに?」
「俺の方が」
子猫が甘えるみたいに蕩けた眼差しで私を見てくる。
「……覚えてない」
「はい嘘」
声を被せるようにきっぱりと断言された。私はぐぬぬと小さく唸って、首を明後日の方向へ巡らせる。このまま言い渋っていても解放される気配がないので、諦めてその言葉をなぞってやった。
「……相模の方が、厄介だから」
「もー、なんでそういうことするかなー」
「厄介なのは事実よ」
「大切なのは?」
自分の胸にも問いかける。
あの言葉はほとんど無意識に口をついたものだった。相模と聖山くんのどちらの方が大切かなんて、一度も比べたこともない。そもそも比較対象ですらないのだ。
けれどふいに唇から零れ落ちた言葉に、「そうなのか」と自分でも腑に落ちてしまった部分はある。
一体私はなにをもって、なににおいて、聖山くんよりも相模の方が『大切』だと断じたのだろうか。
「……嘘じゃない。だけどよくわからないわ」
自分で思っていたよりも弱々しい声だった。
握りこんだ相模の指がぴくりと小さく跳ねる。私は振り返らないままに言葉を継いだ。
「あのとき、聖山くんよりも相模の方が心配になった。相模を優先しないとって……これってどういうことだと思う?」
「……それを俺に訊きますかね」
「あんた以外誰に訊くのよ」
呆れた眼差しで見上げれば、相模は気まずそうに目を逸らして眉を寄せる。
「えーと。僭越ながら申しますと……」呆れるほど長い間を置いて、相模が迷いの消えない声音で続けた。「俺のこと、好きなのでは?」
「私が? まさかぁ」
「即答……」
「だって仮に私が相模のこと好きなら、どうして今こんな風に手を繋いでどきどきしないの?」
ぎゅ、と相模の手を握る力を強める。私のそれよりも一回り大きく、男性らしいごつごつした手がぴっとりと隙間なく密着しているのに、私の心臓はぴくりとも跳ねてくれない。とくん、とくんと規則正しい鼓動が、自身の冷めきった人間性を主張してくる。
「あんたはどうなのよ。どきどきしてないの?」
「え?」
相模が唇の端を引き攣らせた。ぽっと火が灯ったみたいに頬に朱が差して、視線が忙しなく泳ぎ出す。
「あ、あれ。ちょっと待っておかしいな。さっきまで平気だったのに。あのマジでちょっと待ってね、えっと」
外郎売みたいな早口で言い募って、ぶつぶつ独り言を繰り返しながら口元を覆ってしまう。
相模の初々しい反応を冷めた目で眺めながら、やはり私は恋などしていないと内心で一人納得した。
だって、湊の手を引くのとほとんど同じ感覚で相模の手を取ったのだ。手のかかる子どもの世話を見るような気持ちで……。
……あのときの彼もこんな気持ちだったのかしら。
けれど、私が何を思っても、結局は想像の域を出ないままだ。確実にわかるのは、あのとき、私は胸の高鳴りなど覚えていなかったということ。
あの頃は生きるのに精いっぱいで、立っているのがやっとで。
恋も愛も、頭の片隅にさえ過ぎらせることができなかった。
するりと相模の指に自身のそれを絡める。いわゆる恋人繋ぎというやつだ。
不意打ちのような私の行為に、相模はびくんと大きく肩を跳ねさせた。
「えっな、え!?」
「んー。やっぱり違うわね」
「なになになに、俺今なにされてんの!?」
にぎにぎと硬い手のひらの感覚を楽しみながら、やはり違うなと頷いた。
私が知っている男の子の手は、もっと熱くて柔らかかった。何もかもが違いすぎて、とてもじゃないが比べられない。
違うけど、放し難い。
相模から目が離せない。
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