第8話 あなただから②

 思わず目を丸くした。

 小野寺くんは無機質なロボットみたいな声で淡々と事実を並べてみせる。


杏南あんな、昨日家帰って来なかった。朝も見なかったし……」

「なにやってんだ圭! 帰ってこなくておかしいなとか思わなかったのかよ? 心配じゃないのかよ杏南のこと!」

「杏南が自分の意思でそうしたことなら、いちいち俺が口出しすることじゃないと思って……」

「っそうだけど、その通りだけど!」

「それに俺はてっきり亮ちゃんの家に泊まってるのかと」

「とっ泊まる訳ないだろ?」

「どうして? 昔はよくお泊りしたのに」


 堂々巡りの気配を察知し「くそっ」と焦ったように吐き捨てて、おもむろに腰を上げる。そのまま階段へと歩き出した。


「どこ行くの?」

「杏南のクラスだよ」


 直接クラスの人に聞いて確かめるつもりか。合理的だと納得し、ふと傍らを見遣ると小野寺くんは膝を抱えて小動ともしない。ぽっかり穴が空いたみたいに真っ黒な双眸で一点を見つめていた。


「行かないの?」

「……お腹が空いて力が出ない」


 どこかで聞いたようなセリフだ。嘆息しつつ、一応彼の肩を支えて立ち上がらせようと試みる。


「でもほら、杏南ちゃんのためだし」

「……亮ちゃんパンくれなかった」


 妹よりパンかよ。

 遂に呆れ果てて言葉を失う。小野寺くんは聖山ひじりやまくんが降りていった階段の方を見遣って、ぽつりと呟いた。その声には仄かな達成感のようなものが滲んでいる。


「これでいいの。俺は杏南にも亮ちゃんにも、幸せになってほしい」


 本人は至って真面目なつもりだろう。しかし私にはどうしても恋愛ドラマの当て馬が言うセリフにしか聞こえなくて苦笑してしまった。

 このカップル、絶対に苦労するぞ。

 勝手に二人の、あるいは三人の将来を想像して同情しながら、私はやれやれと立ち上がった。

 私を見上げた小野寺くんが、きょとんを首を傾げる。


「金森さんも行くの? どうして?」

「え?」

「杏南と知り合い?」

「杏南ちゃんじゃなくて聖山くんが……」

「亮ちゃんとどんな関係なの」


 矢継ぎ早に浴びせられる問いかけは、私の胸の内に一石を投じるものだった。ぽちゃんと水面に吸い込まれた小石が、歪な波紋を浮かび上がらせる。それはやがてぐるぐると渦巻いて、たちまち私の心を乱すのだった。


 私にとって聖山くんは中学の親しい友人で、代えがたい恩人で、それ以上でもそれ以下でもない。

 言われてみれば、ここで私が彼を追うのはおかしな話だ。あくまで聖山くんと杏南ちゃんの話であり、二人の関係に水を差すような真似は控えるべきだ。どうして私は、彼を追わなければと感じたのだろう……。


 一層深く思考に潜ろうとして、脳裏に甘やかなミルクティー色の髪がちらついた。なぜ?

 継ぐべき言葉を失って呆然と立ち尽くす私の背後で、耳元に息を吹き込むように囁く者があった。


「なにしてんの?」

「うおっ出たな」


 ダイレクトに鼓膜を揺らしたその声に、一瞬のうちに意思が体に戻る。相模はしゃがみこんだままの小野寺くんと私を交互に見遣って、やれやれまたかと大袈裟に肩を竦めた。


「戻ってこないと思ったらまた知らない男子と話してるし」

「……別に、私が誰と話そうが関係ないでしょ」

「まあね。でもできれば交ぜてほしいかなー」

「なんでよ」

「好きだから?」


 あっけらかんととぼけたことを言う。ちょいと小首を捻って、口の端に冗談めかした笑みを浮かべた。


「できれば他の人よりも俺といっぱいお喋りしてほしいし、あわよくば邪魔したいよ」

「オープンに最低ね」

「安心して、俺束縛しないタイプだから」

「今この状況を束縛と言うのでは?」


 もはや反射的に繰り返される応酬は小気味よくすらある。胸の内を搔き乱す渦潮が相模の声に撫でつけられるようにして静まっていくのを感じていた。

 そのとき、ばたばたと忙しない足音が階段の方から響いてきて、踊り場から転がるように聖山くんが飛び出した。


「圭っ」


 しゃがみこんだままの小野寺くんに合わせるように腰を折る。ぜえはあと荒い呼吸の隙間で必死に言葉を紡ぎ出した。


「杏南、登校してないって」

「え?」

「これから先生に連絡来てないか訊いてみる。ダメだったら早退して探してくる。必要なら警察にも……」

「ちょ、ちょっと待って」


 明らかに話が大きくなりすぎている。さすがの小野寺くんも動揺を隠せない。

 おろおろと狼狽えるばかりの小野寺くんと状況を理解していない相模。この場で彼を諫めることができるのは私しかいなかった。


「聖山くん一回落ち着こ?」

「落ち着いてなんていられるかっ、家にも学校にもいないなんて、どこかで事件に巻き込まれてたらどうする!」


 完全に娘を持つ父親のセリフなんだよなあ。

 すっかり頭に血が上ってしまっているようだ。平生の冷静さはどこへやら、今にも駆けださんと踵が浮き上がっている。


「亮ちゃん落ち着いて」

「圭はおばさんに連絡してくれ」

「いやあの、……金森さん」


 困ったように小野寺くんに視線を向けられて、私はぐちゃぐちゃに絡まってうまく回らない思考の中、必死に彼を引き留める術を考えた。

 これまでの経験の中に何かヒントが落ちていないだろうか。思考を巡らせて、はっとただ一つだけ心当たりに至る。


 咄嗟に相模のネクタイを引っ張り、もう片方の手で拳を作って聖山くんに見えるように掲げた。


「はっ! ほ、ほら見て聖山くん! 私相模のこと殴っちゃうわよ! いいの、止めなくて」

「なにその斬新な脅迫!」

「相模は殴られても死なないけど杏南は死ぬかもしれないだろ!」

「俺だって当たり所によっては死ぬかもよ!?」


 相模のネクタイを放して、走り去ろうとした聖山くんの胴にしがみつく。私に胸を押されてよろけた相模が、体勢を崩しながらぎょっと目を剥いた。


「ちょッ金森さん大胆すぎるって!」

「あんたも手伝って相模!」


 私が吠えると、相模も戸惑いながらも聖山くんを抑え込もうと、私ごと抱き込むように彼の胴に腕を回す。しかし激しく身を捩った聖山くんの肘が、相模の顔に思い切りぶつかった。


「いてッ」


 相模の拘束が緩んだ一瞬の隙に、聖山くんは私ごと振りほどいて一目散に駆けだした。小野寺くんも慌てて彼を追いかける。

 視界の端にその後ろ姿を映しながら、私は反射的に尻餅をついた相模へと駆け寄った。


「相模っ、死ぬな!」

「いきっ、生きてるよ、平気……」


 頬骨のあたりに当たったようだ。指先でさすりながら整った顔立ちを苦痛に歪める。

 上目遣いに覗き込むと、肘鉄を食らった箇所がやや赤みをもっていた。


「大丈夫? 結構痛かったでしょ」

「うん。でも金森さんの頭突きの方が痛かったかな」

「もう一発食らいたいなら素直にそう言えよ」


 じろりと睨みつけたら即座に目線を逸らされた。軽口を言える元気があるなら心配ないな。相模が申し訳なさそうに眉尻を下げる。


「でも聖山くんが……」

「……もういいのよ」


 深いため気を吐いて二人の背が消えていった廊下の先に視線を投げる。


 太陽が高い位置にあるせいか、硝子から差し込む光はごく僅かだ。廊下には薄暗い、けれど確かな温度をもった影が落ちている。

 学校の廊下なんてどこも似たようなものだと思っていたけど、眼前に広がる風景にはあの放課後のような寒々しさはなかった。


 そっと瞑目して脳裏に浮かんだ光景を掻き消す。それは宵闇の溶け出す浜辺で砂の城を崩す作業に似ていた。


 座り込んだ相模の手を取り、ゆっくりと引き上げるように立ち上がった。


「相模の方が、大切だから」


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