第8話 あなただから①

 翌日の昼休み。

 室内はエアコンが効きすぎていて、私には肌寒い。椅子の背にかけていたブレザーを羽織り、逃げるように教室を出た。


 まっすぐに廊下を進んでいると、ちょうど四組の教室から出てきた人とぶつかりそうになる。

 まるで行く手に立ちはだかるようにその人が私の進路を塞いだので、ぎょっと立ち止まって見上げた。


 相模よりも背が高く、おとがいを持ち上げないとその顔を覗くことすら叶わない。大きな体躯は壁のようで、正面に立たれると得も言われぬ威圧感があった。


 赤みの透ける黒髪は癖が強く、寝起きみたいにくしゃくしゃに乱れている。長い前髪から覗く眠たそうな目がぎょろりと私を見下ろして、思わず体が強張った。

 

「……亮ちゃんといた人」


 ぼそりと抑揚のない声で呟かれた一言で、私は彼の正体に思い当たる。


小野寺おのでら、くん」

「……うん? なんで俺のこと知ってるの?」


 小野寺圭おのでらけいくんはゆったりとした動作で首を傾げた。ふわふわと夢現を揺蕩うような声音は今にも眠ってしまいそうに不安定だ。

 小野寺くんは「まあいいや」と独り言ちると、相変わらず眠たげな眼差しのまま私に向き直った。


「あんたに訊きたいことがあります」


 小野寺くんが薄く唇を開いたまさにその瞬間、ぐうう、と腹の虫が盛大に鳴いた。もちろん私じゃない。さっきお弁当を完食したばかりだ。ということは……。


「ああ……」


 情けない声を漏らして、小野寺くんがへなへなとその場に崩れ落ちた。お行儀よく三角座りの体勢で、膝の隙間に顎を埋める。


「お腹空いた……」

「お昼ご飯は」

「早弁した」

「……購買には」

「財布忘れた」


 言葉を重ねるごとに小野寺くんの声が絶望の底へと重く沈んでいく。

 しょんぼり肩を落とし、膝を抱えて小さく丸まった姿は子熊みたいで、不思議と母性をくすぐられる。

 ふと、ブレザーのポケットに飴が入っていたことを思い出した。小野寺くんの隣にしゃがみこんでその顔を覗き込む。


「……小野寺くん、飴食べる?」

「食べる……!」


 須藤さんからもらったものだけど、仕方ない。

 私がポケットから取り出した飴を、小野寺くんはお行儀よく両手で受け取った。その瞳は思い做しか輝いているように思える。


 朴訥な印象を受ける見た目と裏腹に、中身は意外とあどけないようだ。纏う空気はふわふわと柔らかく、隣にいるとなんとなくこちらまで和んでしまう。

 飴玉を口に放り込んで恍惚と目を閉じた小野寺くんに、私は思わず笑みを漏らした。


「ごめんね、飴しかなくて」

「あんた、名前は」

「……金森かなもり

「金森さん」前髪の奥で奥二重の切れ長な瞳が私を捉え、ぼんやり繰り返す。「金森さん、いい人」

「はは、どうも……」


 単純すぎて心配になる。私が笑みを引き攣らせていると、ぺたぺたと足音が近づいてくるのが聞こえた。

 廊下に座り込んで邪魔になってしまったな、と立ち上がりかける。しかしその足音が私のよく知る人物のものであることに気づき、顔を上げるに留めた。


聖山ひじりやまくん、おはよう」

「おはよう。で、なにをしてるんだ?」

「金森さんに飴もらった」


 ちょうど話の接ぎ穂に困ったところだったから、共通の友人の登場にほっと胸を撫でおろした。

 小野寺くんが抑揚のない、けれどうっとりと上機嫌な声で答える。するとなぜか聖山くんは腰に手をあてて、私に鋭い視線を注いだ。


「こら金森。圭を餌付けするんじゃない」

「だって小野寺くんがお腹空いたって」

「お腹空いた。金森さん飴くれた。優しい」

「弁当はどうした。おばさんが作ってくれたんだろ」

「早弁したらなくなっちゃった……」


 しょんぼり肩を落とした小野寺くんに、聖山くんが呆れたように深いため息を吐きだす。子どもと接するみたいにしゃがみこんで視線を合わせた。


「……食べてないパンがあるから、それやるよ」


 肩を竦めた聖山くんを小野寺くんが喜色の満ちた瞳で見つめる。


「ありがとう。亮ちゃん大好き」


 その言葉に、聖山くんは顔を引き攣らせた。明らかに気まずそうに声を詰まらせて、誤魔化すように窓の外へ視線を投げる。


 やはり昨日の一件は解決しないままか。


 聖山くんは明後日の方向を向いて座りが悪そうに首を掻く。無感情な瞳でじーっと見ていた小野寺くんが、ふいに切り出した。


「……昨日 杏南あんなになにがあったか、亮ちゃん知ってる?」


 ぎくり。擬音がつきそうなほどにわかりやすく聖山くんの体が強張る。

 小野寺くんの声はどこまでも凪いでいたのに、肌を焦がすような緊張が場を包んだ。


「……杏南が言ったのか?」

「ううん? なにも。でも亮ちゃんならなにか知ってるって思った」

「なんで僕なんだよ」

「だって……昔からずっとそう」

「昔とは違うだろ」

「なにが違うの? 俺は変わらないと思うけど」


 きょとんと首を傾げた小野寺くんの瞳はどこまでも無垢に透き通っている。その眩しいまでの純真さに、聖山くんは声を詰まらせる。

 悔いるようにそっと目を伏せて、苦し気に低く呻いた。


「……変わるんだよ。少なくとも、杏南は変わった」

「杏南が?」


 ずいぶんと間を置いて、聖山くんは掠れた声で躊躇いがちに口を開いた。


「……圭。僕と杏南が付き合うことになったらどう思う?」


 私が尋ねられた訳じゃないのに心臓がどきっと跳ねた。


 成り行きで見守っているけど、本来私はこの場にいてはいけない存在だ。後ろめたさから、そっと彼に知られないよう伏し目がちに小野寺くんの横顔を窺う。


 彼は相変わらず覇気のない眠そうな眼差しと、ふわふわ溶けるみたいな声で呟いた。


「別になんとも」


 拍子抜けするような発言に、ぽかんと口を開いた間抜けな表情で聖山くんが固まる。思わず私も同じ顔をしてしまった。


「二人が付き合っても付き合わなくても、俺たちが一緒にいることは変わらないし」無垢な瞳が、心底不思議というように尋ねる。「恋人になったらなにかが変わるの?」

「か、変わるだろ、色々……。距離感とか、周りからの見え方とか」

「そうなんだ」


 はえーと気の抜けた声を漏らし、感心したように頷く小野寺くん。私も聖山くんも絶句してしまう。


「だけど、俺と杏南と亮ちゃんが三人でいて、それが今までとどう違うの?」


 これはもう、鈍いなんて表現じゃ済まされない。いっそ白々しいほど無垢な彼の言葉は、ある種の宣戦布告のようにも感じられた。

 たとえ恋人だろうが、俺は離れるつもりはないぞ、と。

 幼馴染とか、懐かれているとか、そういう次元を超えている。


「い、妹が友達と付き合うんだぞ! 気まずいだろ、普通嫌だろ! こんな、今まで通りなんて、無理だろ……」

「気まずくないし、嫌じゃないし、無理じゃないよ」小野寺くんはあくまで淡々と答えた。「亮ちゃんと俺も、亮ちゃんと杏南も、他人じゃなくて友達でしょ?」


 結局、はじめから彼ら兄妹と聖山くんとでは、見ているものが異なっていたのだ。

 小野寺くんも、杏南ちゃんも、はじめから対等な人間同士として関係を捉えていた。兄の友達ではなく、友達の妹でもなく、一人の人間と人間の話をしているのだ。


 杏南ちゃんが聖山くんに恋心を抱くのも、小野寺くんがそれを受け入れるのも道理だ。

 ならばこれ以上、聖山くんはなにを気に掛ける必要があるのだろうか?

 纏っていた理論の鎧が、ぼろぼろと崩れ去っていく。


「亮ちゃんは違うの?」


 問われた聖山くんの瞳が大きく揺らぐ。「僕は……」虚ろに呟いて、懺悔するように深く項垂れた。


「自信がない」


 圭と同じ気持ちでいられる自信が。


「杏南に言われる前から、何度も何度も想像してたんだ。杏南が結婚の報告に実家に帰ってきたときに、僕は圭とおばさんとおじさんと、並んで二人の様子を見てて。どんな奴なら杏南のこと安心して任せられるんだろうって」


 重い。重いよ聖山くん。なに当たり前のように親族側に加わってんの? そして小野寺くんもなに普通に頷いてんの?


「だから、杏南の隣にいるのが僕なんて、今まで想像したこともなかったんだ」

「なら想像してみればいいじゃん」

「……した」

「どうだった」


 小野寺くんが問う。聖山くんは膝の上で手を組んで、じっと感情のない瞳で床を見つめたまま小動ともしない。まるで精巧に作られた彫像のようだ。

 薄い唇が幽かに戦慄いた。


「安心した」吐息を吹き込むように囁く。「……幸せだった」


 口の端をゆるりと持ち上げる。うっとりと夢を見るような、恋に陶酔するような眼差しで、歌うように呟いた。


「杏南の隣にいるのが僕だったらいいのに」

「……なら、それが答えじゃない?」


 柔らかく語り掛けた小野寺くんの声に、聖山くんは戸惑いがちにゆるりと顔を上げた。レンズの奥で瞳が不安定に揺らいでいる。


「俺はずっと、亮ちゃんなら安心できるって思ってたよ」


 ふ、と口元を綻ばせて、柔らかく目を細める。ちょいと小首を傾げて聖山くんの目を覗き込む眼差しには、つい寄りかかってしまいたくなるような温かみがあった。


 聖山くんは静かに息を呑むと、浅く唇を噛んで目を伏せる。じっと思考に沈むように俯いた聖山くんに何かを思う間もなく、「ところで、」と小野寺くんが放った一言が場の空気を一変させた。


「昨日から杏南が家に帰ってないんだけど、亮ちゃん知ってる?」

「は?」


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