第7話 あなたのせいで⑥

 一階に降りると、踊り場から聖山ひじりやまくんの背中が見えた。


 昇降口へと続く渡り廊下を一人で歩いている。周囲に彼以外の気配はない。むくむくと膨らんだ悪戯心に背を押され、足早に駆けて彼の隣に並んだ。


「ヘイ亮ちゃん一緒に帰ろうぜ〜」


 やや芝居がかった口調と軽いノリで肩を組む。即座に「亮ちゃんって呼ぶな」とぞんざいに手を払われた。


「なによつれないわね」

「もう高二なんだぞ。付き合ってもない異性にべたべた触っちゃダメだ」


 窘めるような言い方に懐かしさを覚えていると、聖山くんは躊躇いがちにぼそりと言い添える。


「……相模に怒られるだろ」

「相模? 別に怒らないわよ。むしろ最近は手が触るだけで勝手に照れてるくらいだし」

「そういえば相模は」

「うるさいから撒いてきた」


 本当は追い付かれる前に校舎を出る目算だったが、聖山くんがいればその必要もない。存分に盾として働いてもらおう。

 こうして並んでいると、中学時代結城くんと三人で歩いた通学路の景色を思い出す。


「ああ、そういえば私、男の子と手繋いだの聖山くんが初めてだったな」

「ぶっ!」


 聖山くんが盛大に吹き出した。かあっと頬を紅潮させて、わかりやすく狼狽えてみせる。


「なによ、別に変な意味じゃないからね。今思い出しただけ」

「わかってるよ」


 忌々し気に吐き捨てると、会話が途切れる。深く思考に沈み込むような横顔は、遠い記憶に想いを巡らせているようだ。

 やがて躊躇いがちに吐息を漏らして唇を震わせる。


「僕は……」

「……杏南あんなちゃん?」


 ぴたりと足を止める。彼は否定も肯定もしない。私は瞳の一瞬の揺らぎを肯定と受け取った。

 ふと、中学時代の懐かしい光景が脳裏に蘇る。


 夕陽で赤く染まる廊下、二人きり言葉を交わしたこと。

 俯いたまま何も言わない私の手を取った彼。その背を追って歩く、靴下越しに触れる床の硬さ。

 皮が剥けてひりひりと痛む手を包み込む、三十六度の熱さ。


 武骨な手から伝わる途方もない安心感が全身を包んでいく感覚。杏南ちゃんはきっと、私よりずっと前からあの感覚を知っていた。

 私には杏南ちゃんが聖山くんのどこを好きになったのか、よくわかるような気がした。


 未熟だった己の姿を思い出すと、胸の内にじんわりと鈍い痛みが蘇る。

 私がその感覚に溺れてしまう前に聖山くんが幽かな吐息を漏らしたことで、意思が体に戻った。

 誘われるように首を巡らせる。隣の聖山くんは息を呑むほど真剣な眼差しで廊下の一点をじっと見つめていた。


「……金森。もし僕が女で、湊くんと付き合いたいって言ってきたらどう思う?」

「は?」


 一瞬訝しんだが、すぐに冗談などではないと理解する。

 そうしてその言葉で、彼が本当に恐れているのは杏南ちゃんを傷つけてしまうことではなく、今の居心地のよい関係が瓦解してしまうことなのだと気づいた。


「……そうね。聖山くんならいいよ」


 そもそも高校生にもなれば、自分のことは自分で決めて当然だ。それは杏南ちゃんも、湊も同じ。そのうえで想いを寄せた相手が知人だったとしたら、まさしく今彼が懸念している若干の気まずさは拭えないだろう。けれど、確信をもって断言できる。


「だって私、聖山くんならって思って、ひなのことお願いしたんだし」


 聖山くんがゆるりと顔を上げた。レンズの奥で瞳が戸惑いがちに揺らいでいる。

 私は口の端に笑みを浮かべて浅く頭を下げた。


「ひなのこと、ありがとう」


 頭上から聖山くんが驚いたように息を呑む気配が伝わる。ゆっくりと顔を上げて、微笑み交じりに彼の顔を正面から見つめた。


「ちゃんとお礼言えてなかったなって」

「……言っただろ、ちょうど部員減って困ってたって」

「言ったわねえ」

「信じてないだろ」


 じとーっと疑いの眼差しを向けてくる。私は顔を背けて、喉の奥で笑いを嚙み殺した。

 そのまま踵でターンして、昇降口へと歩みを再開する。


「聖山くん、いい奴すぎて心配になるわ。誰彼構わず助けてると身が持たないわよ」

「お前が言うな」苦み走った顔つきで聖山くんが吐き捨てる。「……僕だって、相手くらい選んでるさ。宇梶のことだって金森に頼まれたからだし」


 その言葉に引っかかりを覚えて振り返るが、聖山くんは私に構わず横を通り過ぎていく。


「金森が頼み事するなんて珍しいと思ってたら、誠まで着いてくるんだ。さすがに驚いたよ」


 背中越しの言葉だったため、彼がどんな表情を浮かべているのかは知れなかった。けれどおそらく、呆れたように眉を下げて苦み走った笑みを浮かべているに違いない。私のよく知る彼の表情だ。

 一足先に下駄箱に到着した聖山くんがぽつりと呟いた。

 一組の下駄箱へ寄ろうとしていた私はその直前で足を止める。


「杏南だって……」


 下駄箱の扉を開けたまま、ローファーの踵に指をひっかけて聖山くんが声を落とす。私はその場でじっと続きを待ったが、結局彼は言葉の接ぎ穂を失い扉を閉めた。


 ローファーに足を差し込んで、ふと、なにかに気づいたように顔を上げる。

 私も彼の視線を追うように昇降口の外へと首を巡らせた。少し離れたところに小柄な少女がこちらを見つめて佇んでいる。


 赤みがかった癖の強いショートカットが可愛らしい少女だ。リュックの肩紐をきつく握りしめ、唇を真一文字に引き結んだ可憐な顔つきは、夕陽を浴びているせいか赤く見える。


「杏南」


 聖山くんが独り言みたいに呟いて、慌てて立ち上がった。一瞬だけこちらを振り返って、「ごめん金森、僕行かないと」と短く告げてロビーへと駆け出す。


「え、ぁ」


 うん、と答えようとして、声が喉に詰まった。正確には、何者かに背後から口を塞がれたせいで声を発することに失敗した。


 私の口を手で覆った誰かは、そのまま私を引きずり下駄箱の陰へと隠れさせる。口だけでなく上半身全体を腕で抱え込まれて、ぎゅう、と抱きしめられるように抑え込まれた。苦しさはあるが、密着したおかげでその香りに気づくことができた。

 身を捩ると口元を覆っていた手が離れる。


「相模」

「静かに」


 しっと唇に指を添えて、私を見下ろす素振りすら見せず窘める。

 相模はじっと神経を研ぎ澄ませるように聖山くんたちの様子を見つめていた。つられるように、私も下駄箱の陰から顔を出して二人の動向を見守る。


「この間の答え聞きに来たよ、亮ちゃん」


 鈴を転がしたみたいに可愛らしい声は緊張で震えていた。

 聖山くんは居心地が悪そうに首を掻いて、躊躇するように声を詰まらせる。


「えっと……杏南。本当に僕なのか? 間違いじゃなくて」

「間違えないよ。だって、ずっと好きだったから。ずっとあたしの隣にいたのは亮ちゃんだから」


 羞恥に潤みながらも、その瞳と声音は目の前の男を逃がすまいとまっすぐ彼を射抜く。


「亮ちゃんのことが好き。あたしと付き合ってください」


 募らせた想いの分だけ不安定に揺らぐ声は、昇降口の中まで響いてきた。その温度に隠れて見ているだけの私ですら震えてしまう。


 見ちゃいけないはずなのに、目が離せない。

 相模の腕の中、呼吸も忘れて食い入るように聖山くんの表情を観察した。


 聖山くんはしばらく戸惑うみたいに視線を彷徨わせた。やがて浅く唇を噛み、そっと瞑目する。看取るような横顔は、夜の溶け出す放課後の空気によく似合っている。まるで映画のワンシーンを見ているような切なさに襲われた。


 瞳を持ち上げる直前の一瞬、睫毛が震える様にすら息を呑む緊張感。

 聖山くんが纏っていた迷いが消え去ったことを、その眼差しの真剣さで悟った。

 私は知らず、相模の腕を握りしめていた。


「ごめん杏南」杏南ちゃんが短く息を呑む。「僕は杏南のことを、杏南と同じ気持ちでは見られない」

「どうして?」


 驚いた様子はなかった。はじめから叶わないと知りつつ、彼に想いを告げたのだろう。ぎゅっと唇を噛んで、けれど潤んだ瞳はけして逸らさない。強い子だ、と思った。


「あたしのことどう見てるの。教えて」

「……僕にとって杏南は、」躊躇うような吐息を飲み込む。「けいの妹だ」


 杏南ちゃんの大きな瞳が悲し気に揺らいだ。


「杏南は、圭の妹だから……僕は、」

「じゃああたしがお兄ちゃんの妹じゃなかったら、亮ちゃんはあたしのこと好きになってくれた?」

「……ぇ、っと、考えたこともないから……」

「今考えて。あたしがお兄ちゃんの妹じゃないなら、どうして亮ちゃんはあたしの気持ちに応えられないの」


 今にも泣き出しそうな顔つきと責めるような口調に気圧されたのか、聖山くんがわかりやすくたじろぐ。長すぎる間を置いても、彼がその答えを口にすることはなかった。


 顔を伏せた聖山くんが「ごめん」と口ごもるように弱々しく謝罪する。その瞬間、杏南ちゃんがぐっと苦し気に目を細める。


「あたしにはどうしようもできないことを、あたしを振る理由にしないで」


 泣き叫ぶみたいに悲痛な声が、聖山くんの謝罪を掻き消す。


「あたしじゃダメな理由は、ちゃんとあたしのせいにしてよ。亮ちゃんがあたしの気持ちに応えられない理由は、ちゃんと亮ちゃんのせいにしてよ」ぽろり、眦から大粒の涙が溢れた。「じゃないとあたし、どうしたらいいかわかんないよ……」


 ぐいと手の甲で乱暴に目元を拭って、杏南ちゃんは踵を返した。

 呆然と立ち尽くして小動ともしない聖山くんの影が、ロビーに濃く長く伸びている。

 耳の奥では、杏南ちゃんが残した涙交じりの言葉が、わんわんとサイレンみたいにしつこく鳴り響いていた。


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