第7話 あなたのせいで①
最近、相模の様子がおかしい。
それは授業が終わり、日直の仕事をこなすべく私が黒板の前に立った瞬間だった。
「あっ俺やるよ!」
席を立った相模がするすると机の隙間を器用に通り抜けて教壇までやってくる。そうして何かを思う間もなく私の手から黒板消しを奪い取り、長い腕を伸ばしてチョークの文字を消し始めたのだ。
「別に手伝わなくていいのに」
「金森さん、ベストが汚れちゃうでしょ」
「あー……そっか」
なるほど道理だと素直に感心した。
夏の間、私はシャツの上に紺色のサマーベストを着用している。この格好で黒板を消すと、落ちてきたチョークの粉で胸元が真っ白になってしまうのか。
「よし、脱ぐか」
「は!? ちょっと待って!」
欠片ほどの躊躇もなくベストの裾に手を掛けた私に、相模がぎょっと振り返る。
軽く手を叩いてから私の腕を掴み上げた。そうして大仰にため息を吐いて、呆れたように私を睨めつけてくる。
「なんでそうなるかなあ。金森さんて時々すっごくアホだからほんと心配になるよ」
「誰がアホの子じゃ」
「ほら、アホが滲み出てる」
滲み出とらんわ。慎めよ、口を。
私は円滑な業務遂行のためにベストを脱ごうとしただけだ、罵られる謂れなどない。
抗議の意思を込めて尊大に腕を組み、
「別にシャツまで脱ぐ訳じゃないんだし、そんなに気にすることないでしょ」
呆れ交じりに吐き捨てた直後、相模の顔がかあっと朱色に染まった。
「は!? 当たり前じゃん!」
「何照れてんのよ」
「は!? なに? 照れてないし。はっ?」
「照れ方思春期か。……あ、いや思春期か……」
柳先輩ほどではないとはいえ、女慣れした雰囲気を纏っていた相模が、最近は男子中学生みたいな反応を見せるようになった。
思春期の男子としては正常なのかもしれない。しかし殊に相模に限っては不気味さの方が勝っている。というか、調子が狂うのだ。
これならいっそ、明らかに嘘を吐いているとひと目でわかる平生の胡散臭い笑みを浮かべていてくれた方が、私にとっては気が楽だ。
「……なにかおかしいわね」
「へ?」
「体調でも悪い? いつもの相模じゃないわ」
私がそう言うと、相模は一瞬虚を突かれたように息を呑んで、小さく頭を振った。長く息を吐き出し、さっさと黒板に向き直って作業に戻ってしまう。
「別に。全然普通だよ、俺は」
涼しい顔でそっけなく呟いて私の方を見ようともしない。
どこが普通よ。おかしな倒置法で喋りやがって。
帰りの
教室で着替え始める運動部の男子、自分の席に腰かけたまま電車の時間までSNSに潜る女子──三者三様の放課後を過ごす中、私は日直の仕事の一貫として日誌を書いていた。
その日の授業の簡単な内容と、教室内の様子について担任への報告、その他色々。適当に書き連ねてペンを置いた頃にはほとんどの生徒が教室を出た後だった。おかげで二人の話し声は意識しなくとも耳に入ってくる。
「お願いっ、一瞬だから」
「て言って、どうせ結構かかるんだろ。今日部活あるんだけど」
「いやマジだって。信じて」
無視することもできたけど、相手が相手だったので私は諦めて立ち上がった。手早く荷物をまとめて、日誌を片手に歩み寄る。
「なにしてんのよ」と声を掛ければ、結城くんは助かったというように口元を綻ばせた。
「相模。結城くんになにを押し付けるつもり?」
こいつには球技大会のエントリーシート作成を私に押し付けた前科がある。
相模はうぐっと気まずそうに声を詰まらせた。
「押し付けてないよ。今回は少し手伝ってもらいたくて」
「手伝う?」
「結城くんてばすぐ終わるって言ってるのに信じてくれないんだよ」
「だって……ね」
「ええ、信用ならないわね」
結城くんの静かな目配せに私は強く頷いた。相模が「ちょっと?」と不満たらたらの目で睨みつけてくる。
「前髪が長い男は信用するなってお母さんが言ってたわ」
「なんで金森家の教育は局所的なの?」
私と結城くんの反応に不満げに唸っていた相模が、ふと、拗ねたみたいにぽつりと呟く。
「俺のこと信じるって言ったくせに」
今度は私が言葉を詰まらせる番だった。
あのときの約束を、こんなところで盾に取るなんて。小賢しい奴め。
結局根負けしたのは私の方で、やれやれと諦めて肩を竦めてみせた。
「わかった。なら結城くんの代わりに私が手伝うわ。なにをすればいいの?」
「え、いいの?」
「だって結城くん部活あるんでしょ。てことはひなも待ってるはずだし」
「ごめん」
「いいの、気にしないで。あんたは気にしなさいよ、相模」
「あ、はい。それはもう」
じろりと睨みつければ、相模はやや怯えたように神妙に頷いた。
ひなの待つ部室へと駆けていく結城くんを見送って、改めて相模を問いただす。
「で、なにを手伝えばいいのかしら。ここじゃできないこと?」
「あーうん。そんなに時間はかかんないと思うけど、一応荷物持ってきた方がいいかも」
「ん、移動するならついでに職員室寄ってもいい? これ出さないと」
と、日誌を掲げると相模はふっと考え込むように顔つきに陰を落とした。顎に手を添えて、独り言のように私の言葉を繰り返す。
「職員室か……」
「なにかまずい?」
「いや。むしろ都合がいい」
一体どういう意味だろう。
首を捻った私に、相模は居住まいを正してやけに深刻な目つきで告げた。
「金森さんには、とある重大なミッションに挑戦してもらいます」
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