第6話 ここからはじまる⑤
連日の勉強会は私の都合に合わせて五時半でお開きとなっていた。
机を元の位置に戻して、家で勉強する分のテキストを鞄に詰める。
「じゃあオレたち先行くね。おつかれ」
「また明日ね」
連れ立って教室を出ていった結城くんとひなに手を振って見送る。
私もそろそろ帰るかと振り返ったところで、相模が机に向かったまま帰り支度をしていないことに気づいた。
「相模帰らないの?」
「んー、家だとあんまり集中できないんだよね。さすがにそろそろ時間ないし、本気でやらないと」
と、問題集に目を落とす相模の顔には焦りが滲んでいる。シャーペンの先でとんとんとノートを叩いて、思い悩むように眉を寄せた。
私は少し考えてから、鞄からスマホを取り出した。簡潔なメッセージと謝罪のスタンプを送信してアプリを閉じる。
そうして一度戻した机を再び移動して、相模の席とくっつけた。ぽかんと間抜けな顔でこちらを見上げた相模から目を逸らしつつ、何食わぬ顔で隣に腰かける。
「え、なにしてんの」
鞄からノートを取り出す私に相模が問う。その瞳には明らかに戸惑いが浮かんでいた。
答えなど一つしかないのに、気恥ずかしさのせいで口を開けない。誤魔化すように相模が開いている問題集を覗いて、ノートの該当するページを探した。
「なになに? 無視しないでよ」
「いちいち騒ぐな」
「だって時間大丈夫なの? 夕飯の準備あるんでしょ」
戸惑いがちに制止する相模は心の底から私を心配してくれているようだ。照れくささは残っているが、私は諦めて口を切った。
「……この間のお礼、的な」
「お礼?」
「私が体調崩した日、相模が色々してくれたでしょ」
利用してよと苦し気に呻いた横顔を思い出す。
どれほど相模本人が希っても、やはり私はそれには応えられない。
「家のことは父親に頼んだから大丈夫。定期的に会ってるの。で、今日がその日。ちょうどいいでしょ」
「い……いやいやいや、ダメでしょ、そんな大事な日に」
「ちっ……うっさいなあ」
「うるさくないよ、何回でも言うからね」
「なら私も言っとくけど、誰にでもこういうことするわけじゃないから。相模だからいいの」
「……え?」
ぽかんと呆けたように相模が目を瞠る。
気恥ずかしさを隠そうと努めた結果、自分が思っているよりもずっと真剣な声になってしまった。それがまた妙な羞恥を生み、私はぷいと顔を逸らして小さく呟いた。
「相模が心を差し出してくれたから、私も報いたいと思ったの」
利用するだけの一方的な関係なんて、罪悪感しか生まない。そこにどんな事情があろうとも、均衡がとれない人間関係はいつか瓦解する。
何も言わないのが気にかかり、私はそっと横目で相模の様子を盗み見た。
相模は静かに俯いて、解きかけの問題集に感情の読めない視線を注いでいる。
「……そういうものなのかな」
ぽつりと静謐な空間に落とされた呟きは、意識しなければ聞き逃してしまいそうに小さかった。
私は相模の息使いを掻き消さないように、慎重に浅く息を吸い込んで首肯した。
「そういうものよ」
ぱちぱちと瞬きを繰り返す相模の横顔は幼かった。その瞳は綺麗なものを見つけたときのように輝いている。己に言い聞かせるように神妙な顔つきで小さく繰り返し頷き、幽かに唇の端を持ち上げたのを見て、私もシャーペンを手に取る。
ちゃんと報いるわ。ほんの少し、スパルタだけどね。
期末テストが全日程無事に終了すると、生徒たちは一気に気が抜けて迫る夏休みへの期待に胸を膨らませる。
テストが終われば、翌週からは早くもテスト返しが始まる。今日も午前中だけで三教科が返却されている。授業後、ロッカーを整理する私の傍らで相模がにっこり上機嫌な笑みを浮かべた。
「じゃーん! 見て、平均より上いったよ!」
「おめでとう。わかったから早くそれしまっときなさい」
「えへへ」
最も苦手な現代文で平均点以上が取れたのがよっぽど嬉しいのか、回答用紙を掲げてだらしない笑みを零す相模。勉強会をした甲斐があったな、と実は私もちょっぴり誇らしい。絶対口には出さないけど。
「金森さんはどうだった?」
「98」
「嫌味だ……」
「い、嫌味っ?」
じとーっと冷たい眼差しで見つめられて、柄にもなくたじろいでしまう。
相模はいじけたように唇を尖らせて、悪戯を注意された子供が言い訳をするみたいに呟いた。
「だって今回の学年最高得点じゃん」
「あー……そうね」
「勉強できるの隠してたんだ」
別に隠していた訳ではない。
現代文に関しては私の場合、針谷先生からの圧がすさまじく力を入れざるを得ないのだ。思い出しただけでげんなりしてしまう私の背後で、そのとき、凛と涼やかな声が響いた。
「そう、あなたが」
心臓が跳ねて振り返ると、教室移動の途中であろう黒髪の少女が立ち止まってじっと私を見つめていた。
教材を抱えてしゃんと背筋を伸ばした佇まいが美しい。赤いフレームの眼鏡の奥で理知的な光を宿した瞳が私を映している。黒髪をシニヨンにまとめた、項の涼しげな美人には見覚えがあった。
ひなや相模とは違った方向で、彼女もまた有名人だった。
学年主席の才女。隣のクラスだから、二クラス合同の体育の授業で見かけることも多い。
顔に垂れた髪を掬って耳にかける仕草が妙に色っぽく、桜色の唇が薄く開かれるだけでどきっとした。
「覚えておくわ」
しんしんと降り積もる新雪のように透き通る声音が鼓膜を撫でる。ひんやりと体の芯が凍える心地がした。
背筋をぞくりと冷たいものが走った一瞬のうちに、鹿島さんは風を纏い去っていったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます